いろいろ。

昨日は、まだまだ子育てはおわっとらん、と考えるような話を多々聞く。「初孫」への道のりと言うものもあるのね、、、
大学受験について、いろいろハードな話を聞いたりして、いやー、まだまだ、私も「親」としてはケツが青い。
ふと、お借りしているブックマークをのぞくと子供の「PTSD」がどうの、とこれは「増田」が「不愉快」だったってことでしょ、
それを「子どもがかわいそう」にすり替えてる、自分の思い通りに人が動かなかったのをその人の子どもをダシにして責めてる。
ネットでもよくあるパターンだ、「子どもがかわいそう」というのは、「自分がかわいそう」って言ってるんだよ、
あるいは自分が「多数派」であることの確認と言おうか。
子供の運動会に「お母さんだけしか来なくてかわいそう」とか言う人いたよな、「お父さんが来て「くれない」なんてかわいそう」とか。
一族郎党引き連れて場所取りして、「かわいそう」な母子が座るところまで浸食してくる人間がそういうことを言うからな。
要は、「そこ、目障りだから、どけ!」と言ってるだけなんだよ、
「かわいそうな母子」同志ばかりが集まって、わいわい楽しくやってても「やっぱりお父さんが来ないって不自然ー」とか言い出すしな。
私は「子どもがかわいそう」なんて言い出して他は何もしない「偽善者」は「死ね」と思ってる。最低の「くず」だ。
ところで、少々気になるブクマコメントを見たので書いておく。
「家族を捨てた人はそうかもしれないけど、それが正しいと信じて行った言動がもとで家族に去られた人もいるのではないかな。
それぐらいの真面目さがないとただの煽動家になると思う。」
上野千鶴子さんと小倉千加子さんのことを書いた二日前の雑記についていたのだけれど、
私はたった一言で人生が決まるのは「まれ」にしかないと思う。
前段階に色々あったのをごまかしているんじゃないか、相手に対する負担をより多くしている気がするんだな。
私は小倉さんは一時期ジェンダー関係のことが書けなくなって逼塞してしまったらしいのを惜しむ。
「真面目さ」は考え込んで書くのをやめてしまうことではなく、扇動家と呼ばれても、それでも書き続けることに活かして欲しいと思う、
扇動し続けるのはそれはそれで難しいことで、それが出来る人がどれくらい居るものか、少ないんじゃないかな、やめる人よりも。
「家族が去る」、云々については、家族はその必要がなくなれば必ず解体するもので、それが円満なかたちで終わるか、
あるいは当事者に不満が残るか、それでもやはり家族をまた作ろうとする人はいるし、そしてまた解体して、、の繰り返しで人は続いていくんだろう。
私が「おひとり様の老後」を読まねば、とか思うのは、いずれ私も「おひとり様」に確実になるからで、最後はみんな「同じ」なんだな。
それまでの道のりは違っても。
これを書かれた方は、ロマンチストだなあ、とバカにするのではなく思う。うちのダーリンも大変なロマンチストです。
ロマンチストの心は強い、私は弱い人間なのでロマンチストにはなれないのです。
奈良の放火事件の情報漏洩問題について今朝の新聞で講談社側の証人がでているのを読んだ。
出版に反対した人がいるのを今頃出す講談社も嫌らしいなあ。続報を待とう。