たいせつなこと。

見ればイヤな気持ちになるので見なかったけれど、「ざいとくかい」(と読むんだろうな)なる集団がやっていることはかなり酷いようだ。
なんでこの手の人たちはすぐに「子どもを守れ!」を掲げたがるのか。
以前も「ヤンキー先生」に思ったが、彼らは「子ども」を「なに」から「守る」のか、そしてその「子ども」は一体「どんな」子どもなのか。
不愉快なのは、この人たちが「設定」する「子ども」像に「顔」がないこと、
ただ「守ってやるべき弱い存在」でしかない、でもその「弱い存在」には一人一人に「顔」があって様々な意見を持つことがわかってるんだろうか?
子どもがどのような存在なのか把握できていない人間たちが一体何をしようとしているのか、なにが出来ると言うんだろう、
子どもを思い通りに動かそうとすることが子どもを守ることのように思ってるんだったら、大間違いだ。
子どもは大人の思い通りになんか絶対ならないから。本来、そういう存在なのが「子ども」というものだ。
子どもが「従軍慰安婦」のパネル展をみたからと言って「自虐史観に侵される!」なんてことは「ありえない」、
子どもは親とも違う意見を持つ、子どもにとって大切なことはその違った意見を持つ「機会」が与えられることだ。
その「機会」を奪うことへの罪の重さを意識しているんだろうか?何かをきちんと知らせる「機会」が子どもにとってどれほど有益であることか。
理性的に物事を考える「機会」を子どもから奪うことが「子どもを守る」にはつながらない、むしろ「子ども」を危険にさらすことになる。
何故、情報を与えておくことが「危険」であるように思うんだろう、そこが不思議でならない。
これに限らず思うことなんだが「子どもを守れ」とか「子どもがかわいそう」などと言いたがる人は、
その「子ども」が「自分」とは全く「違う」人格であることを全く無視している、他人の「子ども」と「自分」の「区別」がついていない、
私がもっとも許し難く思うのはこの「侮辱」だ、私の子どもは「あなた」ではない!と何度もネットで思ったことがある。
自分でよく考えもせず、都合のいいことだけを鵜呑みして、他人を責めたがる、そんな頭の悪い「あなた」と「私」の「子ども」は、「同じ」ではない、
出来うることなら同じ「人類」であることすら否定したいほどだ、「あなた」と「私」が違う「人間」であるように、私の「子ども」も「あなた」ではない。
もちろん、「私」=「私の子ども」でもない、攻撃してくる相手にとっては「私」と「私の子ども」の「区別」もついていないようだ。
だからパネル展から出てきた親子連れに絡んで攻撃を試みたんだろう、
「親」が憎ければ「子ども」まで、とはそれでなにが「子どもを守れ!」だ、あんたの暴力から「守って」よ!と言いたくなる。
多分、子供に手をかけて、怒った親が本当の意味で子どもを守ろうとするのを狙っていたんだろうと思う、
ちょっと、体がふれただけでも、「この親が暴力を振るった!」「暴力親だ、子どもの前で暴力を振るう最低親だ!!」などと騒ぎ立てて
あわよくば「見せしめ」のために子どもの目の前で警察に「逮捕」させようと、今まで、この手の集団がやってきたことを思うとそうとしか考えられない。
何故、そこまで卑怯な振る舞いを他人の「子ども」の前で出来るのか、彼らは「子どもの人権」という「言葉」すら知らないように見える。
「「ざいとくかい」から、私と子どもを守って!」と私は心から思うけれど、自分を守れるのは自分だけ、
自分に守れるのは、せいぜい自分の子どもまで。
「情報」をきちんと取り入れておくこと、その「機会」を常にもつこと、
いつか、子どもが大人になったとき、自分で自分を守れるように、こんなくだらない集団の言うことなど「信用できない」と、
「情報」から生きるための「知恵」を引き出す「技術」をもつために、出来ることはそれくらいか。
目を背けずに常に「考える」、それが一番大切かもしれない。
なんだか、まとまらないが「守れ!」と言いたがる人から、自分や子どもを「守る」には、やはり相手をよく知っておくことが必要だと思った。