ニュース雑記。

9月に入っていきなり小学生女児連れ去り事件が連発して、女の子を持つ親にとってはもう冗談じゃないような事件だなあ、
集団登校の待ち合わせに来なかったとか、塾帰りにカバンに押し込まれたとか、身近にあることなんでぞっとする。
実家近くの塾でも昔、親の帰りを三々五々に待っていたところにいきなり乗り付けてきた車に女の子が引きずり込まれそうになる事件があった。
幸いにして、一緒にいたお友達が引っ張られる友達を一生懸命引っ張り返して事なきを得たが、
もしお友達が騒いで助けを呼ばなかったらその子はどうなっていたか、その後そこでは塾が終わる前に迎えに来る車が押し寄せるようになって今でも大変だ。
とはいうものの、子供の安全にはかえられず。とほほ。
変質者というのは実によく子供のいるところ、時間帯を把握していて、全く呆れてしまう。
塾が終わったあと、それぞれの親が迎えに来るほんの数十分程度、暗がりでおしゃべりを楽しむ油断した子供を車に連れ込むなど、簡単にできる。
それを狙う狡猾さには反吐が出る、そこまでして自分の欲望を満たそうとする異常をどうにかできないものか、
人間を人間と思わない、まるでお人形のようにおもちゃにする為に子供を狙う、そこもまた狡猾以外ほかの言葉が見つからない。
相手がどれほど傷つくか、自分が相手をどの程度傷つけるのか、それに思い至らないのか、それともその「傷つける」という行為に惑溺するのか、
以前、ネットで妙に愛と暴力を同列に語りたがる「議論」を見かけたことがあるが、暴力を「深い愛」であるかのように語りたがる人間には
本質的に「暴力」も「愛」も理解できていないのだと思った。
本物の「暴力」を知らない人間は「暴力」に憧れを持つようだ。
そして「暴力」と「愛」を結びつけたがるのは、「愛」がやはり普遍的に全てを清める「力」を持つからこそだろう。
その「力」と「暴力」は全く別物であることがわからない人間も存在することが、ネットで知った驚くべき現実だった。
「暴力」を肯定的に語りたがる風潮も子供に手をかける大人の「言い訳」にされているのかもしれない。
夏休み明けそうそうに被害にあった子供達と、そのご家族が早く日常生活に戻れるように心から願う。
それにしてもタクシーのおっちゃん、グッジョブ!いざとなればなかなかできないことだろうなあ。子供が無事で本当に良かった。