雑記。

小学生が同級生の虐待を警察に訴えた事件を読んで、ふと子どもが中学生の時の修学旅行を思い出した。
上の子が中学生の時、「お金がない」とのことで修学旅行に行けない子は学年でも10人に満たなかったのだけれど、
3年後の下の子の時は、学年で不参加が40人近くいたそうで、
もちろん「お金がない」家庭の子供も増えているのだが「あの子が行かないのなら私も行かない」という子も増えたらしい。
「家にお金がないから行かない」とはっきり宣言する子もいたりして、それを「みじめ」に思うと言うより、事実として認識している、
「修学旅行にも行かせてもらえないかわいそうな子ども」と言うよりは、現実にきちんと対処できている、
親よりも遙かに出来のいい子どもの姿を見て、考えさせられるものがあった。
もちろん、行けないよりは、行けたほうがいい、でも行けないことを恨むより、「行けないから行かない」と、そこにしっかりとした「意思」を感じて、
下の子の場合、「あの子は行かないんだって」と不必要に「カワイソウ」と考えることがなかったのが、こういう「時代」を生きる子どもなんだな、
上の子のときはまだ、「気の毒に」という密やかな同情があったのだけれど、これがはたして行けなかった子に対してよかったかどうか、
「なかよしの子が行けないんだったら行かない」という子どもの存在の方が私にはこれから生きるために役に立つ気がする。
確かにこの国は貧しくなる一方だけど、それで「かわいそうな子ども」ばかりが増えるか、と言えば、そうでもない。
私は「かわいそうな子ども」という妙なセンチメンタリズムが嫌いで、
何故かと言えば、私自身もかつて「かわいそうな子ども」扱いされる存在だったからなんだが、
だからといって「かわいそうな子ども」に「プライド」がないわけではない、むしろ、何もないぶん「プライド」だけが自分を支える、
そういうことを、やたらと「カワイソウ」を連発する人間に理解できるか、
生きるって事はどういう事か、それを理解していない大人が今、増えてるって事なんだろう。
子どもが寄り添いあって、かばい合って、楽しいはずの修学旅行さえ、相手のためにあきらめることが出来る、
そういうのはすごいな、と思うのだけれど、
義務教育の修学旅行が原則「全員参加」が「たてまえ」にあるのだとしたら、費用なしで全員が参加できる方法を考えて欲しいものだ。
まだ、地方の学校の修学旅行など、地元旅行会社のいい稼ぎ口だろう、
これから変えなければいけないことを自分の子どもたちが義務教育をおえてしまってから気がついたわ、、(涙)
私より少し下の世代の親はわたしたち世代より優秀で、私が小学校PTAだったとき、さんざん、存続についてもめた朝の立哨当番を
今は、地域の老人会に任せている。
働くお母さんが増えたので、当番制は「もう無理!」と、でも、だから「なくす」のではなくどうすれば「存続できるか」を考えた行動力のあるPTA役員さんには脱帽。
わたしたちには「元気なお年寄りに手伝ってもらう」ってな発想がなかったわ、人間はやはり進歩しているよ。