世間を渡る話、、、?

ひさびさにお気に入りをのぞくとすばらしい「研修」をみつけたりして。
「川を渡る話」は私が大学生時代(20年以上前)にも別バージョンであったぞ、と。まだこんなことをやっているのか、と。
「血液型」と同じでくだらない「おつきあい」、ぐずぐず、べたべた「なれ合い」の世界がまだあるんだなあ、なんて思ったが、
悲しいことに教育現場でも似たようなことをやってたりする。
現在中1の娘が「ストレス耐性度テスト」なるものを学校の「総合」の時間に受けさせられて、
その内容に「あなたはストレスにあったとき、どう振る舞うか」という設問があったらしい。
選ぶ答えは、
(a) 負けずに立ち向かう。解決法を探す。
(b) じっと我慢する。
(c) 何もしない。
とあって、娘は(c)の「何もしない」を選んだそうだ。
これは「ストレス」への処し方であって、どれを選んだとしてもそれほど責められるいわれはないと思うのだが、
先生曰く、「(a)以外を選んだ人以外はみんな「間違い」」、「目の前の「問題」に立ち向かおうとしない人は逃げている卑怯な人間」とか。
娘は「何をしても駄目だから「ストレス」になるんでしょ?なら、何もしないでしばらく様子を見るのが「悪い」なんて、おかしいじゃないの!」
と、(c)を選んだ女の子はクラスにも結構いたようで、その意見にみんなが「おー!」となって、担任の先生はクラスの女子により嫌われてしまった。
元々、不人気な先生が余計に不人気になってしまったのは気の毒な話なんだが、
この先生は実は上の娘の時の教科担任でクラスを押さえることが出来ずにしょっちゅう職員室に帰ってしまった人だ。
しかも専門が「理科」、「理系」の教育者ならこの「テスト」のしょーもなさに気がついてくれよー!と考えずにはいられない。
この手のくだらない「アンケート」か「占い」のようなものに「総合」の時間を費やされて、税金の無駄、の言葉がふと浮かぶ。
下の子は担任運がないのか、去年も担任の先生が「色診断」みたいなことをして、
「好きな色に暖色系を選ばなかった女子はおかしい」とか「男子が寒色を好きなのは当然」とか、わけのわからないうわごとを聞かされて
(「聖徳太子ユダヤ人だったかも」なんて授業中に話してくれるたいそー「ごりっぱ」(遠い目)な先生でしたわ、、、)親子共々うんざりした。
こういうことが2年も続くと「最近の公立校教育は、、」とうめきたくもなるが、この10年でここまで「大当たり」な先生はまだ2人だからよしとしよう。
「ストレス耐性度テスト」は「テスト」と名がつくように当然「点数」があって「ストレス耐性度の高い人」「普通の人」「低い人」と、得点で分けられる。
娘は馬鹿馬鹿しくなったので「自己採点」しなかったそう、何故か聞くと「なんでこんなことをしないといけないのかわからない」
「元々ストレス耐性が低い人に「あなたは低いです」って、わざわざ確認することで「ストレス」を与えてなんになるの?
それで「ストレス」とこれからは「戦おう!」なんて言う気になれるんだったら「ストレス」なんか感じない」
「先生は「ストレス耐性の低い人は悪い」と言って責めた、そんな先生の言うことは信用できない」と、誠にごもっとも。
娘がこの「テスト」を拒否することで「結局、「ストレス」に弱いんじゃないか」と嗤う人がいるかもしれないが
むしろ娘はその「ストレス」と自分なりの考え方で「戦おう」としているので決して「ストレスに弱い」わけではないと私は知っている。
しかし、世の中は、この馬鹿馬鹿しさになんのためらいもなく楽しく「おつきあい」できるのが多分「多数派」で
少しでもこのおかしさに気がつく人間は、「気がついた」ことを他の人間に気がつかれないようにする「技術」を持って初めて「知性」を示すことになる。
なんと社会は「複雑」な構造であることか!
もっとも、私の普段のおつきあい界隈にこういう「占い」じみたもののくだらなさに気がつかない人はほとんどいないんで、
そうじゃない人たちに出会うのも、子どもたちにとっては「社会勉強」、やはり「学校」は様々なことを「学ぶ」所ですな。
「知性」が安く見積もられる原因はこのあたりにあるような気がしてきた。「気がつかないふり」を「知性」に強要する社会。いやはや。
ちなみに、元の「研修」を紹介した人を「悪い」とするのは「マルチ商法」にどっぷり浸かっている人を責めているように私には見える。
「わからない」人を「わからない」ことで責めてもな、、、
20年以上前にあったくだらないネタで研修を行う会社に未来はないと思うし、
怪しげな「健康食品」を社員に「ノルマ」と課して親類縁者に買わせそうでこわい。(そしてある日突然、社員にも知らせずに「会社」が消えたりして)
子どもたちには「川」ではなく「世間」を出来れば「上手」に渡って欲しいけど、さて、どんな渡り方をするのやら。