「はつしつげん」から。

新年、政治家の中で「派遣村」について問題発言をされた方もいたようで、
ふーむ、家のない人たちというのは拉致被害者家族並みにわかりやすい「不幸」を体現していなければいけないものなのかな。
「貧しさ」ってパフォーマンスが求められるものなんだろうな、マッチ売りの少女のような瀕死の「かわいそう」、
と言うか死んでしまえば「かわいそう」と心から言えるわけで、当分は死にそうにもなさそうな人は単に「目障り」なんだろう。
全て失った人が「目障り」と思われても一人でいるよりはマシ、と考えて独自に人を集めて自分たちが生きるための道を模索したら
法に外れた行為に手を染める可能性もないかな、失うものがなければ私は何でもしてしまうかも。
「黙って死んでいきたくない!」と無茶なことも考えつく、「弱さ」ってそう言うもんじゃないか。
その立場にいない人が気にかけて呼びかけてくれるのはありがたいことだ。
出来る限り社会に悪影響を与えない手だてを講じるのは国の役目ではないのかな。
ネットでも辛口の意見が多くて、なるほど、と思うこともあるものの、やはりホームレスの人は地方でも確実に増えてるものなあ。
駅近くの病院で勤務している身内の話によると、構内で暖をとっているような人たちが本当に「瀕死」の状態で病院に担ぎ込まれて、
病院が「保護」を紹介する窓口になっていると、「それもいつまで出来るか、、こうも数が増えてきたら、、」って、
ボランティアー団体が私の住んでいる保守的な地域では少ないらしいからね。
保守的な地方では「自己責任」がみんな大好き、だって支えがある人しか今の地方では生き残っていけないから、全ては「対岸の火事」だもの。
私は哀れな人を見るのがいやだ、だからどんな惨めな境遇におかれても人には「空元気」を見せて欲しいと思う。
行き場のないおっちゃんが自暴自棄でも酔っぱらってご機嫌になってくれた方が
「仕方がないおっちゃんや」とぶつぶつ言いながらでも受け入れられる。
本当にいるのかどうか知らないが「保護されてやってるんだぜ」みたいに元気っぽい人の方が「人」として対等に腹も立てられる。
ただひたすらに世間に対して謝り続けているような、そんな追い詰められた人を見るのは「私」が辛い。
どんな状況におかれても、人として「プライド」を保っていて欲しい、プライドを示すやり方が「暴力」でさえなければなんでもかまわない。
結局、私も「かわいそう」な人に自分の気に入るようにふるまって欲しいと勝手なことを言ってるだけかな。
でも政治家が「それらしくふるまえ」みたいなことを言うのは何かが違う、例え「援助」するにせよ。
現政権は人はお金をもらえば言うことをなんでも聞くと信じているのかな、お金で「ふるまい」も買えるのかな。
「買える」んだよね、お金をもらえるからたいていの人は「それらしく」ふるまう、それが出来るから社会からなんとかはじき出されずにすんでる。
行き場を失った人の中には人が望むとおりにふるまえないから居場所を失ってるのかもしれない、不器用にしか生きられない人は責められない。
「援助をしてやるからそれらしくしろ」が政治家の発言の意図であれば個人的な好みの問題を税金を使って押しつけてるような
「税金」って誰の金だっけ、と改めて。
増えているとは言っても全体から見れば決して多くはない人たちを救うのは社会の在り方として間違ってないと思う。
それにしても今年に入ってから、「見られていることを常に意識しろ」の強い意向をいろんなところで感じるなあ、、
「かわいそうな人」らしく、「働く意思のある人」らしく、ふるまえ、か。お金がないのは本当に悲しい。
「らしく」ふるまうことについて、今年もよく考えてみよう。