ネット雑記。

うごメモ」関連を拾い読んで、子どもが初めて「ネット」に触れる「道具」がその後のリテラシーに関係するかと思った。
我が家の子どもたちは早いうちからパソコンの画面でネットに触れていて、言葉の「威力」をその「大きさ」で感じ取っている。
でも初めてネットに触れるのが手のひらの中に入る小さなケータイ画面やゲーム機だったらどうだろう、
同じ「言葉」でも発する重大さをそれほど強く感じ取れないんじゃないか、なにげに馬鹿げた言葉を書き込む、これはケータイが多いんじゃないかな。
子どもの感覚は「原始」的だから言葉の「力」をそれが表示される「画面」の大きさで判断する、これは子ども「だけ」の感覚ではないかも。
大人だって、ケータイで見るのとパソコン画面で見るのとではその「迫力」の違いにある程度影響されるだろうしね。
我が家の子どもたちはケータイでネットを見ることができない。
大きなパソコン画面でアクセスできることを知っていれば「見づらい」からと、手のひらから広がる「世界」に興味を示さない。
と言うよりも「手のひら」に「世界」があるの感覚は子どもにはわかりにくい、広い「世界」が手のひらに収まるはずがないと思うのは自然なことだ。
ここ数年、問題になっている「プロフ」にしても子どもにとってケータイは「プロフィール帳」に過ぎなくて、安易に書き込んでしまう。
(注;「プロフィール帳」とは小学生の主に女の子がお友達「認識」のために自己紹介、アドレス、その他を書いてもらうノート)
(注;下にコメントをいただいたのでリンク先は削除。)
最近はゲーム機でもネットにアクセスできるのだから、「ケータイ」と「ゲーム機」の区別もつけにくいし(故にアクセスの失敗も起こる)
「曖昧」な感覚のままでネットに入っていくのは仕方がないことだ。
この流れは受け入れるより他仕方がない、と私は思っている。
そもそも親世代でネットを使っているものが私も含めてご立派な「リテラシー」を持っているかと言えば、はなはだ心許ない、
それを子どもに求めるのはもう「どんだけー?」ってことだよなあ、それでも子どもがネットで傷つけられるのは出来るかぎり防ぎたいのが親心。
個々に親が対応するのが今はいちばん現実的なやり方で子どもに一人でネットをさせないが最も有効だろう。
ネットにつながるゲーム機を与えるにしても、それで遊ぶ時間をある程度親が決めておく、宿題をやってから、だとか、
夜何時以降はしてはいけない、とかこういう具体的なやり方が子どもにはいちばんあっているんだな。
それを「監視」と見た人間があまりにも馬鹿げたことを書くので昨日は驚いたが、
「子どもが危ない!」と書いて「自己顕示欲を満足させる」人間なんてその程度。
手のひらの中にある「もの」で見知らぬ誰かとつながると教えるために何が出来るか、
以前どこかで読んだように学校が教材としてパソコンを一台子どもに配布するような社会になればいいかもしれない、
ケータイを禁止するよりもよほど現実的だ。
ネットが子どもを受け入れることでどう変わっていくのか、リテラシー云々以前で私は楽しみにしている。
そのうち我が家のリアル中高生のネット事情について書いておこう。「デジタルネイティブ」たちは面白いよ。