雑談。

昨日、雑誌「ロスジェネ」に関して書いたところにトラックバックをいただいたのを知って
私が「赤木論文」と今回の秋葉原の事件に関連性を持つと思われているようだったのでコメントを残した。
「赤木氏のように「言葉」だけにとどめる人とそれを現実にしてしまう人との「違い」みたいなものにもっと焦点を当てて欲しいと思います。」に、
その「違い」とは「究極的にはfortuneのようなものだと思っています。」のお答えをいただいているが
この「fortune」とは「運」なのか、あるいは「資質」を意味するのか私にはわからない。
何かがおこるのは偶然が重なり合った必然であった、と言うのはわかるのだけれど、「運」に帰してしまうのには違和感がある。
それなら秋葉原で命を失われた方々もそれが「運命だった」になる気がする。私はそれに納得できない。
とはいうものの言葉で語ればなにもかも堂々巡りにしかならないだろうし、
この事件を「テロ」や「戦争」に模してみても、「テロ」も「戦争」も「人殺し」であることに変わりはない。
「社会が悪い」に焦点を当てすぎると、個人の悲しみがぼかされてしまうのが嫌だ。
「もっと遊んでやればよかったと後悔しています」には親の立場として身につまされた、その痛みを死ぬまで持っていかねばならない。
恐ろしく卑近な、「あのとき、あのおもちゃを買ってやればよかった」とか「欲しがるままお菓子を与えればよかった」とか、
たった19年しか生きられないとわかっていれば、、と悲しみ続ける。
それがわかるが故に、私は加藤智大の「孤独」を理解することは出来ない。
最近、紙屋高雪氏を追いかける配偶者のおかげで「ロスジェネ」だの、「m9(エム、キュー、と読むらしい)」だの、
「格差、ニートワーキングプア、ロスジェネ」と「言葉」ばかりで「煽っている」ような雑誌を読む機会に恵まれて、
かなりうんざりしている。
何に一番うんざりしているか、と言えば、その雑誌の「出来」の悪さ、ネットを読む「以下」の「内容」に
これならまだ「まじょりー」でも読んだ方がなんの期待もないぶんだけ精神衛生上いいんじゃないか、と思ったりしている。
何に一体流れていこうとしているのか、私が読んだこの二つの雑誌はどちらも創刊号なので今後どうなっていくのかわからないが、
本質的な問題とは何かが違う、と言う気がしている。
執筆者は、それぞれ真面目で立派な方々とは思うがそこを「利用」されてるんじゃないか、そんな感触をふともった。
どうもまとまらない、この「何かが違う」がはっきり出来ればいいのだけれど。