これは嫌だ。

秋葉原の事件はあまりのひどさに出来るだけニュースを避けている。
ネットで続報を読んでもうんざりするし、あきらめてテレビをつけると19歳の息子を殺された父親が
「もっと遊んでやればよかった、と後悔しています」と、
立派に大学生にまでしてやった息子をいきなり奪われて、自分に「後悔」?
なんでこの人がこんなことを言わわなきゃいけないのか、と愕然とした。
これは、ネットお得意の「相対化」が浸透してきたせいか、とすら思えてしまった。
ネットでは「加害者もかわいそう」の声が必ず上がる、
そしてうがった意見がそれらしくいくつも上がる、素晴らしく「冷静」を装って、実は「自己顕示欲」に過ぎないものが。
私自身もまたkmizusawaさんが書かれているように
「何か言ってるブロガーだとかこの事件に興味を持つこと自体を叩く人が現れて」の1人で、
書くことで自己顕示欲を満たしているんだろう、でも、「書かずにはおれんわ!」
いくら「亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます」と、とってつけたように書いたところで、
あの事件の犯人の置かれた状況を「あわれ」と「書く」その「意識」が子供を奪われた人の心を傷つけるんじゃないか、
事件の遺族で表に出たのは(私がテレビで見た限りだが)、みんな「父親」、「母親」は出てきていない、
「母親」では耐えられないだろう、大切に産んで育ててきた子供をいきなり奪われて、何か「言え」という方がおかしい、
それでも何か言わねばならない、「言わねばならない」と「思わされて」いる、「良識」をもって。
犯人を死刑にしろ、とか言ってるんじゃない、でも被害者を黙らせる力がないか?「犯人もかわいそうだ」の声は。
なんのために子供を育ててきたのか、
遊びに行った秋葉原でいきなりトラックにつっこまれて何本も骨を折ったぐしゃぐしゃの姿で家に帰されてくる日のため?
バイト先でたまたま見かけた事故の手助けをしようと駆け寄ったときに内蔵まで破壊する力で深く刺される日のため?
例えワーキングプア予備軍に過ぎなくても、もっと生きていたかった若い命を多く奪った人間が「かわいそう」?
なんで真面目に働いてきて、子供を学校に入れて、やれやれ、と思ってる親が
「もっと遊んでやればよかった」と「後悔」しなきゃいけないんだろう、
どうしてそう、自分自身に痛みが向かってしまうんだろう、振り上げた拳をおろしてしまうんだろう、
あまりにも情けない犯人に恨みさえ抱いてはいけないと言うことなのか、
ならばその情けない犯人に大切な命を奪われてしまった人たちはどれだけ惨めなことか。
「許されない犯罪だ、しかし、、」「亡くなられた方は本当にお気の毒です、でも、、」
もうたくさん。いいね、そんな風に「正しい」ことが書いていられて。
誰を恨んでも仕方がない、でも私は子供を奪われたら恨みたい、と思う、心の底から。
なんで子供を奪われた父親が「もっと遊んでやればよかった、と後悔」するのか、
そんな風に「自分」を語らなければいけないのか、
ネットの言葉の皮相さ、そういうものが遠因となっている気がして、腹が立った。
悪いことは悪い。それが言えない世の中って、どうよ?「ネット」の世界でも。