話題の本を読書中。

ネットでちらほら見かける「思想地図」をダーリンが買ってきて、芹沢一也に「納得した!」の意見をネットで読んだので
今、彼にはまっている私はさっそく読む。感想は、ふーむ、と、ああ、暗いわあ、、確かに納得はするけど。
以前、都内に住む身内が「これからは一握りの「勝ち組」と、残り全て「貧民」であればすむ世界に変わる」と
この身内は暗いことしか言わない人間なんで「そうかいな」としか思わなかったが、同じことを上品に言われた気分。
いやー、でもそうなっちゃうんだろうかね、少ない「いす」の取り合いみたいな世の中、
結局、ごく少数のそのいすを求める人間同士が「共食い」が始めるのかな、それなら私は「貧民」でもいいかな、と
チラッと思ったんだなあ、「数」が多い方が可能性は「ある」と私は信じるほうなんで。
問題になっている「貧困」はそういう種類ではなく、もっとも「弱者」のことであって、
そういう人へのセーフティーネットがどんどん失われていく、と言うより、そもそもそれが「あった」と考えるべきか、
芹沢さんの「狂気と犯罪」を読んでいて、国家の「国民」の「とらえ」方とは、多数を都合よく「作り上げていく」、
本によると「賤民」を「国民」に「警察」が作り出した、そうするに至った状況はある程度理解できるものの、
「文明化」とは「スパルタ式」だったんだなあ。
それにしても「自助努力」とか「自己責任」とか目の前で死んでいく人にそれを言ってなんになる?ってかんじだ。
今回、芹沢さんが取り上げた女性野宿者の話を私はネットの話題として読んで、
今の日本の話とは信じがたい、と思っていた。ここまで来たか、を信じたくない、と言うか、
芹沢さんが紹介している詳細を読んで、さもありなん、
人に「何かをしよう」と思う気持ちがない、こういう人たちが役所に属しているのか、
多分、何らかの「責任」が自分たちに問われるのをおそれている、こういう人たちに「自己責任」という言葉は免罪符か、
でもその言葉に自分たちもとらわれている、
福祉課の人たちは大変だの話を聞いたことがあるので仕方がないことかもしれないし、
その野宿者に食事を与えても手遅れだったかもしれないが、
やはり末期の水を与えるくらいはしてやってもよかったんじゃないか、それがまた何らかの「責任」に問われるのかなあ。
「公僕」という言葉は「公」=「国家」の「僕」ってことなんだろう。国家の忠実なる具現者、と言うことか?
そんな人ばかりではないことを知っているんで、どうしたものかね。
ところで、私は今回「牧民」って言葉を芹沢さんの文章で初めて知ったぞ、へー、見るからに納得、面白い言葉があるもんだ。
ディケンズの時代、その小説の中で「救貧院」や「債務者監獄」の悲惨を多く取り上げていて、
私がもっとも好きな作品は「リトルドリット」で、債務者監獄に入った人間の情けなさ、悲しさ、
また行政のいい加減さ、投資の危うさ、等々、現代と変わらぬ様相を描いていて非常に面白い。
社会の仕組みが激変するときに現れる悲喜こもごも、200年経ってもほとんど変わらない、
色々読んでいるとそういうことが思い出されてくる。
変化していく時代に生まれた私に何が出来るんだろう、で、やはり「自助努力」とつぶやいてしまうんだなあ。
「小説」とは違う、「思想地図」にはこれから何が描き出されるのか、
それにしても執筆者のメンバーが朝日新聞の書評欄みたいでなんだかんだ言ってNHKと朝日新聞は仲良しか、なんて思った。
それから、メンバーのほとんどが70年代生まれ、わーかーいー、、、、
芹沢さんにしたって一つ下だよ、私が知ってる60年代生まれの思想家(?)って小熊英二さんぐらいしかいないな。
他はどうしてるんでしょうかねえ、、
「思想地図」はイラストが「ムー達」の人で可愛いです。私にとってここが一番の「ツボ」だったりして。
芹沢さん以外も面白いです、まだ読書中。

追記;話題の本と関係のない追記を別のところに移動させました。