日常・メモ。

3月末から私と配偶者、双方の父親が体調を崩している。
配偶者・父の方は入院をして今回復に向かっているものの、私の父親にはあれこれと手を焼いている。
その状態を書けば「唇寒し」となるので書けないが、なんとも脱力するようないろいろがある。
若いときに「理想!」とか、「思想!!」にかまけた人というのはどうも年をとるとひどい「鬱」状態に陥るように思う。
この手の病は今はどちらかと言えば、男性に多いように思うが、これから女性も増えていくんだろう、特に今の50代あたりから。
先日、話していた50代の知り合い(女)が、「もう、わたしたちにはなんの楽しみも幸せもないのよ」と何げなく言って考えさせられた。
「なんにもない」という口調のさりげなさが深くて、言葉を失った。「なんにもない」かあ、、、
「鬱には気をつけてください」とすら言えなかったなあ、私自身も気をつけなければいけないと思うし。
「理想」や「思想」が生きていくために役に立たないのなら、いったい何のためにあるんだろう、
それとも精神に何らかの瑕疵が見られるひとが「思想」や「理想」にとらわれるのか、などと、まとまりなく書きとめておく。
両家の父親たちには、まだ配偶者が元気でいて、年をとった夫婦の関係を私は学んでいる途中だ。双方の妻ともに体力的にきついだろうに、
夫の世話をすることに驚くほどの熱意を見せる。
私はこんなふうに出来るのかな?年をとれば変わるんだろうか?
長く「夫婦」として過ごしてきた男女の関係は「愛」などでは語り得ないものがある気がする、もちろん「憎しみ」でもない、
一番、ふさわしい言葉があるとすれば「絆」か、最近は嫌われている言葉だが。
多分「絆」はそれだけの年月をかけなければ出来るものではないんだろう、言葉を無駄に使いすぎていることを反省しなければ。
先日、島崎今日子氏が新聞で安井かずみ加藤和彦が「理想の夫婦」だったと書いてあったが、その「理想」の薄っぺらさにうんざりした。
時代の寵児カップルを自分に模すほど、当時の若者はナルシストであったのだな、などと、その軽薄さがやがてバブルにつながったか、
世代がちがうせいか、安井かずみ加藤和彦がどれほどすごかったのかピンとこない。「パーティピープル」ってそんなにすごいか?
そういえば加藤和彦鬱病で自殺したな、理想の果てにあったものは自死か。
「理想のパートナー」である安井かずみが生きていたら違っていたのかな?残念ながらそうは思えないが今の私だったりする。
子どもを作るほど泥沼に沈まねば築き得ないものを「絆」と呼ぶのだろう、子どもである私は両親という「夫婦」の傍観者としてそう思う。