「裁判」を思う。

光市の事件についてその判決に関連して「死刑制度はいかがなものか」と書くと、たちまち「被害者の家族を考えろ!」と
コメント欄にとんでくる連中がいる。みるとうんざりする、「裁判員制度」を考えて。
あぁあぁあぁ、こんなことをぎゃあぎゃあがなる奴とまともにやっていけるのかしら、「裁判員」。
私なんて、世間一般で「ヒマ!」と烙印を押されている専業主婦なのですぐにでも「裁判員」としてお呼び出しがかかりそうでおびえている。
自分はまともに法的な「判断」を下せるんだろうか?
成人すると一度はあたりそうな「裁判員」、まるで「徴兵」制度的だよな、
良心的兵役拒否」みたいなことは出来ないのかしら、「私にはとても法に従って他人を裁くことは出来ません」と。
最近、子供の犯罪に対するものの見方、的な本を立て続けに何冊か読んで、あまりの難しさに「私には出来ない!」と確信しつつある。
法の下に判断するって、自分の「個人」としての思いこみの根本を問い直す作業でもあるんじゃないか、
先日読んだ芹沢一也氏の「ホラーハウス社会」を読んだとき、子供の犯罪をどうとらえるのか、
そもそも「子供」とは「社会」から見てどのような存在であるのか、また「犯罪」というものが「社会」で何を意味するものか、
「心の病」というものがなんなのか、本当に「病気」というもので処理していいのか、そもそも「病気」はどうとらえるべきなのか、
うぅうぅうぅ、、すみません、わかりません、今まで裁判官の方どうもありがとう、たくさん勉強していらっしゃったんですね、、(涙)
世間一般の「常識」とかけ離れていてもそれはそれで全く「まとも」であるという気がしている。
そうでなければ「一般社会」など存在できないのだ、とも。
死刑制度については遅ればせながら私も反対の立場になろうと思っている。
ただ、ひどい犯罪というものは確かに存在して、それがどのようなものだったかと裁判で解体されたとしても命を奪われた被害者は帰ってこない。
それから「少年犯罪の匿名性」に関連して書いてあったことによると、
報道はだんだんと加害者の生い立ちなどを詳しく書くようになり、それで加害者側に同情が集まる向きもある、
数多くの顔のない集団は被害者の家族に対して「加害者を許す被害者家族」の「結末」を望むようになる、と
犯罪って結局なんだろう?それに関わりのないその他大勢の好奇心のみを刺激するために存在するもの?
今回、「光市」の事件の判決をとってみれば、まだ確定はしていないけれど「ほぼ「死刑」となるだろう加害者のことを
いまだに「当然のことだ」とつばを吐きかける人間達が無数にいる。
もう、彼は裁かれた、その判決にほとんどの人が納得している、
その上で、死刑になる、ひょっとしたら何らかの「障害」を抱えているかもしれない、
その「障害」故に「死刑」になるかもしれない人間に、これ以上何がいえるのか、
ちょっと頭の回る連中はあの弁護団のことをあしざまに書いているが、彼らは彼らで自分たちの「仕事」をしているのだ、
その「出来」は不問にするにして。
それをどこまで私たちは理解できるんだろうか?裁判の中で一般人である「裁判員」に何が求められるんだろうか?
私は「死刑」になる人をそれが「妥当である」と判断したことを「適切だ」とこれ以上強調しなくてもいいと思っているし、
見知らぬ人間が死んでいく被告に対して凱歌をあげることを遺族の方々は決して望んでいないと確信している。
自分たちの奇妙な「正義」のみを満足させるがためだけに「被害者のことを考えろ!」
「自分の家族が同じ目にあったらどうするんだ?」と「死刑制度を考えよう」と呼びかける人に罵倒を浴びせる人間に
では、あなたは自分が「加害者の家族になる可能性は全く「無」であるか」と言いたい。
また、あなた自身が「加害者」になる可能性はないのか、「ない」と断言できるなら、それは「神様」だろうから、
神の国」へと早々にお引き取り願いたいものだ、人間社会に「生き神」様は必要ない。
例えば私が被害者の関係者だったとして私は犯人を許さない、でも私は法に従う、
でも加害者の関係者だったとき私はどこまでもその味方だ、でも私は法に従う。
法の下で生きるって、そういうことなんだと思う。
裁判員」にはあたりたくないなあ、、おかしな「正義」ばかり振り回す人と一緒になったらどうしよう?と、そればっかり心配している。
法の下に判断するってやっぱり難しいわ、、