観察記録。(その1)

妙に子供の勉強に熱心な「父親」達を観察していて、すけて見えるのはやはりある種の「学歴コンプレックス」だ。
「やり方さえ「間違っていなかったら」俺だって「東大」「京大」くらい入れた」
「その「テクニック」を俺が知らなかった「だけ」だ」「それさえやれば俺だって」
目的は「大学」の「名前」を手に入れることだけで、そこで何を学びたかったか、とかそういうものはほとんど感じられない。
そこで、「子供」に何を学ばせよう、と言う「目的」もない。
子供を「駒」のように扱い、自分の「分身」として動かそうとする「自己満足」しか私には見えない。
「これをやらせて、次はあれをやらせて、」「そうすれば「東大」くらい「攻略」出来る」
私はかつての「詰め込み教育」の残した「弊害」は「やれば出来る!」の「幻想」にある、と思う。
「やれば、(ある程度は)出来る」が正しい、そこから先は「能力差」がある。
私はその「能力差」をほとんど問題にしていないらしい父親の在り方に疑問を持つ。
国際的な学力テストで順位を落とした!と最近騒いでいたが、
これを細かくみると「トップ」の成績に変わりはない、下の層が増えているため、平均が低くなったのだ。
それが何を意味するか、と言えば、トップ層に変化はない、になる。
特定の大学が「入りやすくなった」は、例えば学部を選びさえしなければ、能力がある程度以上なら入れないわけではない、は
昔から比較的知られていたことだと思う。確かに子供の人口は減っているので、倍率が低くなる傾向はあるだろう。
でも、そこを目指す人間は水準以上の能力を持つのは昔とそれほど変わらない、
それを「やり方さえ知っていれば誰でも出来るはず」の「思いこみ」で突破できるものだろうか?
突破する子供の、ではなくその父親の情熱だけで、難関大学は「攻略」出来るものだろうか?
私は子供が幼稚園児であるにもかかわらず熱心に「東大突破法」に興味を示す父親にほとんど「能力」というものを感じない。
どうしても「東大」に入りたければ、自分で今からやってみればいいのだ、その「やり方」で突破できるかどうか、
本人が「証明」するべきだろう、子供に「やらせよう」とする前に。そうすれば子供の「能力」には問題がない「かもしれない」。
彼らが憧れの大学に入れなかったのはあくまで自分の「能力不足」であったと、認める傾向は全くない。
私はそこに病んだものを見出さずにはいられない。
また、コメント欄で長々と自分の子供がいかに「出来」がいいか語り合っているのに、私にはその子供の「顔」が見えない。
常連のコメントに登場する子供はまるで判を押したようにいつも同じだ。
しょっちゅう行われている「(自分に似て)出来のいい子供」の自慢大会で、不思議とどの子も「賢く」て、「やる気があって」と
親にとって「理想」的な子供であるのだが、「個性」を感じさせる「エピソード」は全くみられない。
長期に観察してきているのにこれは非常に不思議に私には思われる。
子供に関する親の記述には、どんなに短くてもその子供の息づかいが感じられるような「個性」が必ずみられるものだ。
特に私が好きで読ませてもらっているいくつかのところでそれを書く親御さんは
無意識であっても子供の「個性」をうまくとらえている。よく、お子さんをみているのだと思う。
しかしお勉強熱心な父親は、画一的な表現方法でしか子供を記述できない、(能力のなさ、か?)
子供が見えていないのだ、と私には思われる。
以前、紹介したZ会の小冊子「じぐざぐたいむ」の特集「格差に時代を生き抜く子育て」で
尾木直樹氏は父親が子供の勉強を見ることについて奈良で起きた「少年自宅放火事件」を例に挙げてこのように書いている。
「父親は夜中の12時、1時まで毎日息子の勉強を見ていたそうです」
「そうした状況にも、小さい頃はついて行くかもしれない。幼いなりに親の愛情を感じますから。」
「しかし、思春期になって自立がうまくできないで苦しむのはこのように「いい子」を演じてきた子供達なんですね」
「いい子」を「演じ」させた父親の存在抜きにこの家庭の悲劇は語れないだろう、
その父親に本当の「子供」の姿は見えていなかった、見えていたのは多分そうあって欲しかった子供時代の「自分」、
お勉強ブログの熱心な「父親」にこの手の「危機感」は全くみられない。ここに私は不安を覚える。
もちろん、私自身はどうか、子供が見えているかと問えば、見えていないかもしれない、と認める。
多分、私がこの安易な「勉強法」ブログに群がる「父親」達を観察するのは、そこに感じる不快感から、
「自分」の姿を見いだせないか、確認するためだろう。
受験期に「無理」をさせた部分もある、と私は思っている。それをこの先どう受け止めるか、私の課題でもある。
子供が「見えていない」こと、「お勉強ブログ」に関しては、自分に整理がつくまで続ける。