教育を思う。

例えば子供にピアノを習わせるとして、「将来は有名ピアニストに!」と願ってやらせる親は少ないと思う。
やはり音楽に親しんで欲しいとか、なにか楽器が出来る方がいいとか、楽譜が読めた方が便利だろうとか、
そういう感覚ではじめさせる気持ちの方が自然だろう。
「将来は有名なピアニストになるために」、と子供時代から学ばせるのはかなり特異なご家庭じゃないだろうか。
それはそれでいいんだろうし、ごく少数そういう人がいるから、名ピアニストが生まれるのだろう。
でも「楽しくピアノ」の人が多い方が世界は豊かになるんじゃないか。
私にとっては「お勉強」も同じ感覚だ。出来ないよりは出来た方がいい。
特別有名大学に入ってもらいたい!ではなく、いろんなことを理解できた方が生きていくのに便利だし、
もし子供自身が勉強が得意と気がつけばもっと勉強しようと「自分」で努力すればいい。
ピアノが好きで、難曲を引きたいから一生懸命練習するように。
ちゃんと練習しなければピアノは上手にはならない、勉強だってそうだ、またピアノには向き不向きだってある、勉強だってそう、
でも子供に「勉強」をさせることについて、この感覚を理解してもらうのは案外難しい。
以前少し書いた、とある「お勉強ブログ」を何故私が読んでいるかというと、
ここの書き手がわかりやすい「嫌韓」「反中」で今は「チベット」について語る人だからだ。
1年ほど読んできて、彼が人権意識の高い人ではないのを確認し、
むしろある種の人権団体に対してはまるで今のチベットへの中国的立場をとってきたように思うが、
今は全くの人権派になっている。
そのわりに沖縄の少女暴行事件などはまるでなかったがごとくに無視で、
産経新聞基準なのだろう、被害者が多ければ多いほど燃えるらしい、「民主主義」の原理かもしれない。
こういう人の「お勉強メソッド」がどの程度有効なのか非常に興味があるので、毎回楽しみに読んでいる。
「simulation」を「シュミレーション」と書く人の勉強法を活用しようとする人がいるのは不思議でならないが
コメント欄にお集まりの皆様方は全く指摘されない。(気がつかないものだろうか?)
このやや英語力に難のありそうな方のアドバイスを受けた方々のご子弟が
はたして有名大学にお入りになられるのか注目せずにはいられない。
ピアノをはじめて「ド」が「ド」なのを知ったような状態で、「将来はピアニストになれます!」と断言できるものかしらね。
現実世界で決して知り合いでもない人のお子様に「このままの状態を続ければ東大、京大も夢じゃない」と、
そのお子様はまだ幼稚園児だったりして、わたしにはわけがわからん。
ピアノが弾けるのは幸せだ、楽器をを楽しめることで世界は広がる、
でもそれだけで日常生活の全てが変わるか、と言えばそうじゃない。お勉強も同じだと私は言いたい。
書いているうちにネットでとくとくと「お勉強方」を書いている人に感じる不快感が何となく見えてきた。
以前書きかけておちをつけないままにした、最近の「父親の育児」に関して感じていることと共に続けて書こうと思う。