「冷食」について。

最近の流れとしてはどうも「家庭の主婦が冷食なんて!」があるようでもちろん中国餃子事件のせいで
そういう傾向になってきたのだけれど、それはやっぱり違うだろう、と私も思う。
お気に入りの方のところでコメントをいただいたように、
問題は家庭で「冷食」を使うことが是か非か、ではなく、その「安全性」であって、
そこにもっと目を向けなければいけないのに、妙に「家庭回帰」的な「手作りとは、、」論だのになって、
では冷凍のコーン、缶詰のコーン、なんかはどうするんだ、ああいうものすら「手作りとはいえない」にまで
「厳密」に言えばなるんじゃないか、なんて、私はすぐむかっとする。
「冷食」を使うことへの罪悪感を強調するよりは、「冷食」の便利さと安全性は確保しよう、が正しい導き方ではないんだろうか。
実家の母は、揚げ物をしようとして3度もぼやをだしていて、最近、やっと自分で揚げ物をする気にならなくなった。
「結局、夫婦二人やし、買ってきた方がおいしい」とか、自分で自分を納得させていたりする。
私が持って行けばいいのだが、母はそれを嫌う、「自分の食べるものは自分で何とかしたい」の「プライド」が母にはある。
私がやれば早いことを母は「自分」でやりたがる、これを大切にすることが子供の役目かな、と思う。
今、両親が年をとってきて、色々とままならなくなっているのを見るにつけ、私は「冷食」を賢く利用して、
出来るだけ子供達の世話にならないように夫婦二人でやっていきたいと思っている。
考えてみれば、手間のかかるものを夫婦二人でいて私は作るだろうか?
ある程度の「量」を作るから「買う」より「安い」(かも)で、今は作るけれど、
多分年をとってきて、二人分、となると新婚でもあるまいし、手軽にすまそうとするだろう、
その時「冷食文化」に衰退してもらっては、と思う。
全部をそれにするわけではない、必要に応じて、臨機応変に便利に使いたい、
そういう考え方を今の「手作り礼賛」は圧迫するようで不愉快だ。
「冷食」を一種の「食文化」として認める流れも残してもらいたい。
「食べること」の「自立」をしやすいように、売る側はもっと「安全」に気を遣う、
でも、そこを曖昧にした方が企業側としては簡単なんだろう、中国が悪い、冷食を使う方が悪い、とした方が安くつく。
本当にやれやれ、だ。