「食育」雑記。

「食育」の言葉が注目されている。
この言葉が出始めたのは、4月に高2,中2になる子どもたちが二人とも小学生だった頃だなあ、妙な「アンケート」をよくとられたっけ。
私がPTA役員をしていた当時、「食育」関係の研修会に行ってるような親とは、元々「食育」を施される必要のない方々ばかりで、
「なんだ、いつもやってることばっかりじゃん」みたいな、「こんなことをいちいち確認してくれるなよ」とぶつぶつ言いながら帰ったもんだな、
当然、本当に「食育」が必要な人が来るはずもない、また来ることも「出来ない」んだなあ、「研修会」は、たいてい午前中か、午後の早い時間だし。
私はこの全国的な「食育」運動は、一種の「利権」、「天下り先」の新規開拓だと思ってて、
多分「食育推進委員会」みたいなのが出来て、そこに地方の名士、国会議員の親戚の奥様なんかがおさまって、
それがまた「男女共同参画ですよー」なんてことになるんだろう、と思ってたら、
やはりどうも「助成金」がそれなりに出るひとつの「機関」になってるらしく(とあるブクマで読んで知った)
ま、こんなとこだよな、私が参加してた時期はとにかく「朝食を食べさせよう」運動と連動していて、それがよかったか、どうか、
朝食を食べさせるのはとてもいいことだけれど、そのメニューが「和食じゃなきゃ駄目」みたいな、後になって政府の備蓄米の惨状が明らかにされて
結局、あれはそのいい加減な古米を一掃させるためにやってたんじゃないか、と疑ってる、国のやってることはおかしなことが多いよ。
とは言っても「食育」を押しつけられた現場は、私たちのような「当たり前のことで呼び立てるな!」とぶーぶー文句を言う人間の声を
少しは汲んでいて、どうしたらもっと「食育」に興味を持ってくれるか、真面目に考える人もいて、
(そういう感心な人がどこかの「奥様」だったりするから「コネ」と言うものも、あながちバカには出来ない)
今では物珍しい「郷土料理」の掘り起こし運動につながったりして、「郷土食」とは昔ながらの貧しい食事で、「雑穀」を扱うものが多いから、
これがまた「マクロビ」とかにもつながったんだろう、で、そこから「とんでも科学」にもつながったりして、
いい方向に向いたと思ったら、あさってな方向に向かったりして、いやはや、なんでこうも「迷走」してしまうんだか。
私が「食育」を好きになれないのは、それを「やってない!」と見なした家庭を攻撃する「道具」にする人もいることで、
たまたま「今朝は時間がなくて、とりあえずパンだけは口に押し込んでおいた」なんて話を、参観日に知り合い同士で笑いながら話していると、
「まあ、あそこの奥さん、そんなことも出来ていないんですって」と、その家庭の子供に何かがあると「やっぱり」のような、
特に私が住んでいるところはあまりに世間の狭すぎる人もいるんで、そういうのにうんざりする。
他人の家庭を必要以上に萎縮させる「力」に「食事」が手を貸すのは、どうも納得しがたい。
大体、そんなに私たち親世代って「いいもの」ばかり食べてきたっけ、かなりいい加減なものも食べて育ってきたはずだ。
私の実家はインスタント類をほとんど食べさせない家だったが、それはインスタント類が「高かった」せいで、
私は「カップヌードル」に憧れを抱いている子供だったな、それから「マクドナルドのハンバーガー」にも。大人になって初めて食べて感動した。
私は今でも「ポパイ」に出てくるウィンピーのハンバーガーに憧れているよ、
これが豊かじゃない家に育って、インスタントを食べさせてもらえなかった人間の末路といえるかな。
そういえば子供時代に読んだ本に、共働きの両親を持つ主人公が友達の家に行って、
おやつにそこのお母さんが焼いてくれた「ホットケーキ」を食べる場面があった。
その家の子は外で売ってる「たこ焼き」は食べない、「お母さんに叱られるから」と、
でも、主人公は「たこ焼き」が好きで、友達の家で食べた「ホットケーキ」よりもおいしいと感じて、私もその感覚に深く共感した。
その本の中ではどうも友達のお母さんが主人公と自分の子供が仲良くするのに違和感を持っているようで
「お母さんの手作り」でやたらと強調されるその「品のいい家」にうんざりして、
私は、家でホットケーキも作るが、外で友達と楽しくたこ焼きも食べるのも認める母親になろうと思って、幸い、その願いは叶えられた気もする。
「出来るときはやりましょう、何でも楽しく食べましょう」の緩やかな「食育」運動であれば問題ないんだけどね。
「食育」に思うことはまだあるが、今日はこの辺で。
「食事」は大切、でも他人と「差」をつけるためのものじゃない。それを「食育」で教えられるといいね。