雑記。

最近、子供の受験前だったので「自粛」していた「おつきあい」活動をはじめて、
あちこちで「おめでとうございます」と言われてすっかりいい気になっている。やっぱり「おめでとう」は私のじゃなくてもうれしい。
でも「やはり(私の名前)さんのお子さんだから「出来」がいいのね」みたいな言われ方をすると「ぬ?」とか思う。
言ってくれてる人は単なる「お世辞」なんだろうが、なんだか「子供の出来=親の出来」と世間は見なすのだな、と
それでは塾の先生の「子供さんの中学受験がうまくいかなくてもそれは親の責任ですので」の言葉も受け取り方が変わるような。
「やり方がまずくてごめんな、おまえが悪かったんじゃないよ」と落ちればやはりへこむだろう子供にどう接するべきかを、
教えてくれているのかと思ったんだけどな。
「親=子供」の視線は重々承知しているつもりだったが、ううむ、いざ自分に否定的なものじゃなくてもそういう反応が
現実に返ってくると複雑な気持ちになる。
親の役目とは、子供の欠点は親が作り出してしまったもの、美点は持って生まれた子供の才能、
あるいは後から子供が「自分自身」で獲得したもの、をよく理解することじゃないか、と。
子供のよくなかったこととか、悲しかったことを無条件で受け入れてやるのが親の義務なのでは、と。
でも子供時代、それをしてもらえなかった人もいて、それなのに、自分の子供には優しくしてあげられたり、
誰が傷ついているか、かばってあげるべきなのかちゃんとわかる人がいる。
これって「(やさしく)されたから出来る」じゃないんだろう、「されなかったから出来る」は何故なのか、ずっと不思議でならない。
恵まれて育ったからといって、豊かな心を持つ人になるわけではないことを残念ながらよく知っている。
むしろ恵まれない人への想像力がまるで欠けている人を時々見かける、「恵まれる」ってどういうことかわからなくなる。
子供によくしてやっている「つもり」ではあっても本当にそれがいいことなのかどうか、迷うなあ、、
中学受験のメリット的なものも今回、よくわかって、今もし、数年前に戻れるとして、どうするか、と言えば
公立校のデメリットをよく知っていても、やはり私は「公立」校を子供に選ぶ。
「恵まれすぎること」への不安が私にはあるからだろう。近所にある私立校の「デメリット」もよく知ってるし。
「3年後にまた受験だ」と、その私立に行かせてるお子さんをお持ちの方に話していたら
「3年おきの受験も本人のためになるんじゃない」「6年ってだらだら長くて緊張感が足りない気がする」と
その方はご自分が公立校出身なので、自分の経験からすれば子供の環境は少々「甘い」と、
私は親が私立出身の人は私立にしか自分の子供を行かせられなくなる、とずっと感じてたんだけれど、
同じことが「公立出身者」にも言えるかも、とふと思った。親が「公立」だと「私立」の良さが親に見えないかな。
選んだところが一番いい、と思い、またそうであるように努力することが大事なんだろうな。
私は公立校の、良くも悪くもいろんな子供がいるところがいいと思う。私立でもある程度はそうだろうけど。
うちのダーリンは付属校出身者で、「へぇ」と思うようなそうそうたる同級生、同窓生、がいるんだけれど
それでも私は卒業者の最低でも1割が前科者になる自分の出身中学が好きだったりする。
自分の母校では、何らかの問題がありそうな同級生の存在がいつの間にか消えている、とダーリンは言うので
「あいつ、また最近入ったって」みたいな、前科者もマイルドに受け止める同級生がいる方がいいな、と
その感覚を私は子供に持ってもらいたいとひそかに考えてる。勉強よりも、それが大切、だったりして。
もうすぐ卒業式。上の子は9年間の義務教育修了。