「婿」はどこに?

空気嫁」について、「嫁」と呼ばれると言うことは必ず「婿」がいるはずで、
その「婿」が「気に入らないよっ!」と言ってるだけのような気も、、、
結局、他人の「嫁」になんか興味のない「おっさん」なんですよ、私は。と、おふざけ意見を書いてみる。
要は「空気」と言い換えられて個人の嗜好がその場「全体」のものとしてごまかされている、
「自分がこうしたい!」を明確には出さないのがいやなんだよな、「自分」という「個人」がこうしたい、を出さないことによって
別の意見を封じ込める、それが本当に無味無臭の「空気」と呼べるものかどうか、巧みな「卑怯」ではないか?
私には幾分「卑屈」とも思えるこの「手法」は他の言葉でもよく使われていて、
例えば特異な政治志向を持つにもかかわらず、「普通」の主婦、とか、自称「中道」とか、
つまり、自分「個人」の意見ではない、「一般的な」「共有された」「常識」であるかのように「表現」する、
何故そんなにも「個人」的な意思を表明することをおそれるのか、「自信がない」のか「無責任」なのか。
これが時代の「空気」なんだろうか?
「個性」を無意識であっても埋没させようとする、それでいながら他人にその「個性」を押しつけようとする、
明確に意志を持つ人間をいじめる子供っぽい部分に似てるんじゃないのかな、この心理。
空気嫁」と言うより「空気圧」と呼ぶべきでは。
「WILL」も「論座」も呼んだことがあるのでもはや「普通」とは言い難いだろう(「世界」はどんな雑誌かさえ知りませんが)私は
それでも「主婦」とは一番多く長くつきあっているのでその多数の性行はほぼ知っている。
やはり思想系の雑誌を定期的に愛読するとなると少数派と言えるし、
「私が読む雑誌」と知らない人が混じる大勢の中で堂々と公言できるかどうかを考えれば、「特異」と呼ばれても仕方がないと思う。
ま、でも私は「読んだことがある」とは言える、事実だし、何故読もうと思ったか明確に理由を人前で話して恥じることはないので。
それでも一定数、「あの人は変」と思われるのは間違いない。
その意見を意見として受け入れられるかどうか、そこが「ひと」として「ひと」であるかどうか、試されるところだと思う。
「空気」という言葉ですり替えられる何かにはごまかされるな、とは昨日も書いたので、
自分に都合の悪い「空気」と呼ばれる「毒ガス」を感じたら、その匂いの根本はちゃんと突き止めておこうね、
「空気婿」を探せ!としょっちゅう誰かの「空気嫁」をふみつけている私がアドバイス
最近は(道徳を教えてくれるらしい)「水」だの「空気」だの、なんなんだろうな、この「えころ」っぽいお「言葉」は。
この「風潮」どうにかならない?(あ、「風」と「潮」だ、もはや「日本語」の根本的問題か?)