誰かの「空気嫁」

空気嫁」とか「KY」の言葉が定着して久しいようで、「空気は自分に都合のいいときだけ読め」な私としては
他の人がどのように「空気」をつかむのか大変興味深い。
「読まなくてもいい空気」というものがあると信じているので、と言うことは私もある程度は「空気」を読んでいる、
その場の「空気」に影響される人間であると自覚している。
多分、現実生活では実に空気をよく読むと私のことを思う人もいれば、全然空気の読めないひどい奴、と評価する人もいるはずで、
そのどちらも確実に「私」なわけで、それでいて完全に「私」ではないのだ。(なんのこっちゃ)
なんのかんの言って、私は「空気嫁」な雰囲気が大嫌いだったりして。
この「空気」という表現が「誰のものでもない」という「無責任」が匂っているのだ。
「空気」とは「無味無臭」のようで、そこにいる全てのひとが「共有」されているものだと「決めつけ」られているが
実のところ、その「空気」は「醸し出された」ものでその「空気」の出所は案外1カ所であったりする。
これは現実生活だけではなくネットでもよくあることだろう、考え方が一個人のちょっとした提言でがらりと変わっていく、
その「仕掛け人」は無意識である場合もあれば意図的である場合もあって私は意図的にそれをするひとには反感を覚える。
「その場の「空気」で」とはよく言われることで、でもそれは実は個人が意図的に醸した空気を誰かがくみ取って、
それが伝播していく、「力」に連鎖反応を起こしている、と言っていい「空気嫁」の場面の方が多々あって、
私はやはりその「力」を巧みに「空気」にかえているものに対して反抗したい、と考える。
「力」を「空気」にかえることについて、もう少し書きたいが、今日は少々忙しいので、ここまで。
「空気」という言葉に騙されてはいけませんよ、と時々ネットで言いたいと思うことがあるな、私には。