雑記。

倖田來未の発言について、「腐った羊水」が意味するところは「障害児を産みたくない」ってことでは、
と感じさせるようなところを読んで、考えさせられた。
倖田來未の発言はかつての柳沢厚労相の「産む機械」発言ほどかんに障らなくて、それは多分、発言者が若い女の子である、
と言うこと、いずれ自分の「産む」立場であるという「不安」がどこかににじんでるんじゃないか、と思われたからだ。
大体、25歳の女の子の言うことにどんだけの意味がありますかね、
なんて、今の彼女と同じ年齢の時、上の子をはらんでいたバカ母が言いますよ、ちゃらちゃらしてました、すみません。(今でも)
でも柳沢氏の場合「国家」の代表者の発言で、その「機械」が意味することは「正確」に「完品」を生み出せ、ってことじゃないか、
じゃあ「完品」を産めなかったら「壊れた機械」なのか、「壊れた機械」は処分されるってことなのか、などと、妄想(?)炸裂、
ちょうど「美しいくに」なんて訳のわからないキャッチコピーが出てた時期だったんでそれも影響したな、
今でも倖田來未よりも腹が立つ。
「機械」とは誰かに「操作」され、その誰かに都合よく動かなければいけないが、
男性は「機械」が好きなせいか自分のことを社会の「歯車」と呼んではばからないところもある、
もちろん歯車がちゃんと動かなければ全体の機械が動かないことは知ってる、大切な発想だろう。
でも「産む」行為はそういうとらえ方でいいんだろうか?人が人を産むのはそんな単純なことではない。
「ちゃんと産めなかった」と思いこむことはずっと母親になった人の心を傷つける、そもそも「ちゃんと産む」ってなんだ?と思う。
「ちゃんと」って結局「障害のない子供を産む」ってことなんだろうか?
何をしていても確実に一定数、障害のある子供は生まれる。それは誰が悪いという問題ではない。
でも「羊水が腐ってる」と今は死語になったかもしれない「適齢期」にいる女の子が発言する、
「不安」がそれをさせるような気がして、哀れにも思う。
やはり「機械」みたいに「確実」に「障害のない子を産まなければ」の「圧力」が今でもかかってることなのか。
この「不安」の圧力が「産み方」についこだわってしまうような、
「促進剤を使うような女は母親失格だ」とか、そんな発想につながっていくんじゃないか。
「産める身体」であることはやはりある程度「期限付き」なのでそれって、やっぱり男性にはないプレッシャーだよな、
「産ませるからだ」であることを男は女ほど意識があるのかな、あるようには思えないなあ。
「自然」だの「えころ」だのに過剰に走る女性が多いのは、「産む」意識が重いせいかもしれないな、、
とか思ってたら、「羊水がシャンプーの匂い」なんて珍説発見!
私の知らない「とんでも世界」はまだあるンかー!!!私の知らない世界は知らなくていい世界、なんだろうな、、(遠い目)
知らなかった、今回の件でもっとも驚いた。あの発言は思った以上に根深い問題を持つようだ。