あれこれ。

昨日、お隣日記に「和田中」について色々あったので読ませてもらう。やっぱり賛否両論だなあ、、、それぞれに納得できる。
杉並区に住んでる、実際に中学生を通わせている親の立場だとどうなんだろう、これが見えないなあ。
もうちょっというと、塾の先生に教わる生徒の立場では?どこを目指しているのか、その授業を心待ちにしているのか、
うーん、やっぱり賛成、反対、どっちにも傾けない、情報があまりに断片的な気がする。
大都会は選択肢が多すぎてかえってものすごく不自由な状態に陥ってるんじゃないか、
うちの地区だって、近所に県下唯一と言っていいお金持ち私立があるばっかりにいろんな不自由がある。
それはまた子供の受験が終わったらまとめて書いておこう、この先、変わっていく事情の覚え書きになるかもしれん。
教育に関しての意見はそれなりに良識があって参考にも勉強にもなるものの、
ジェンダー関係のあれこれを取り上げられている方のところのコメント欄はあまりにひどくて読んでて泣けてきた。
同時期に二人も抱え込まれてよく頑張られましたなあ(涙)、読んでるこちらがきれそうになりました。
何とも不毛な、でも多分コメント欄で対立するとは相手に対して尊敬の念でもないとこうなってしまうんでしょう。
何かが知りたいよりも相手に言わせたいことがある、それは何故か。わかればいいんだけど、自分自身のためにも。
南京大虐殺にしろ従軍慰安婦問題にしろ、ものすごく微妙な言葉の揚げ足取りになることが多いのが本当に馬鹿馬鹿しい。
特に「南京大虐殺なんて「信じてる」の?かっこ笑い」なご意見には、涙。
「信じてる」なんて言葉を用いるから私は「信じる」という言葉にアレルギーを起こす。(これはこれで違うけど)
歴史的に「あった」ことを「認識する」のと「信じる」とは別もんでしょうに。
南京虐殺」を扱うことは「宗教じみてる」を含ませて、この言葉の使い方の嫌らしさよ!
「知る」ことを「信じる」と置き換える、その「姑息」に心の底からうんざりする、
「知らない」ことがどれほど馬鹿げているか、認められない自分の無知を「認めろ」よ、
「知らない」ことすら「知らない」、そこに泣ける、自分を見出すからだろうな。
最近だんだんわかってきたのは、「論説文」風の「ブンガク」が、大勢に受け入れられるってこと、
そこで用いられるのは「検証」ではなく「反証」、都合の悪い「事実」には全速力で華麗な「スルー」を行う。
真面目な「検証」と「反証」は違う、それがわからない、その「無知」に気がつかない、
ただ自分が「信じたい」と思うものを「正しい」とする。
思えばかぎ括弧付きの「これは実話です」をつける「フィクション」、「この言葉もまた「ブンガク」ですよ」の薄ら笑い。
ケータイ小説」的な「論説文風ブンガク」を私はどれだけネットで見かけるか、新書でも。
ケータイ小説」よりも許し難いわ、「論説文風ブンガク」は。またそれを読んで、それなりにわかったつもりになることも。
話は全く変わるが「東大一直線」の他に、よく考えたら「マカロニほうれん荘」「ガキデカ」とか、
私は男の子向け漫画ばっかり読んでたと気がつく。
かろうじて「キャンディキャンディ」を読んだぐらいで「女の子漫画はつまらん」と思ってた。
男兄弟がいるせいか、単に私の趣味だったのか、でもあの頃のギャグ漫画のセンスって今思うと高度だったような。
その後私は「落語」の世界にもちょっとはまるんで、いやはや。だから「おたく」と結婚したのかも。
ちなみに東大通君が東大に通ったんだっけ?記憶力はそのレベル。(書庫に行けばありますが、探しません。)
そう言うことにもちょっと腹が立つ。