昨日の続き、ちょっとだけ。

ネットを拾い読んでいると、これはどう考えても私が考えている言葉の概念とはかけ離れてるんじゃないか、と思うことがよくある。
私の概念がいつも正しいとは言えないのはよくわかってるんだけど「中立」だとか、「寛容」だとか、
このあいだは「ペダンティック(pedantic)」をこの人に使うか?ってのを見かけて驚愕した。
「知性」は「知識」の羅列でできあがるモンじゃないよ、
極端なことを言えば「知性」は「知識」がなくても持てることがあるけど
「知識」がどれだけあっても決して「知性」に行き着かないこともある、その方がずっと多いみたいだ。
まあ、「ペダンティック」なんて言葉を使う時点で集めてる知識も3流以下、
他人を「ペダンティック」なんて呼べるほどの「知性」派、私は見かけたことがないですなあ、、ネットでも。
言葉の使い方は人それぞれで、この人はこの言葉をどう使ってるのかな、と考え込むことがよくある。
人のことは言えないと繰り返し念を押すがそれでも言葉の使われ方がよくわからないところはたいてい、
その文章の構成もゆがんでいる気がする。そのゆがみがどこから来るのか、
自分自身の欠点を見つめる気持ちで読んでみたりする。
ああ、馬鹿だ、こいつはどうしようもない馬鹿だ、と絶望的な気持ちにさせられるのは、
その馬鹿っぷりに自分自身が必ず含まれているから、その自覚が私をうんざりさせる、
相手はそれを「自覚」出来ていないのにも、それに対して私は「自覚」しているにもかかわらず、
同じように馬鹿な部分を持つことにもうんざりする。いやはや。
「国」(この場合は「国家」だな)と「自分」を同一視している、の説明はよく理解できるんだけど、「何が」そうさせるんだろう。
なんで「自分」を「国家」に帰属させるのか、そんなに「個人」として存在することは恐ろしいことなのか、私にはわからない。
「日本人」であるが故に差別される、と言うことはあるがそれだけを見ていつまでも差別し続ける人間を相手にしても仕方がないだろうに。
私も海外で差別された経験を持つが最終的に人は必ず「個人」を見る。
この「個人」に大きな問題さえなければ「国」に属していてもひどい人種(国籍?)差別は解消できる。
「個人」としての自信のなさが「国家」と「一蓮托生」の意識を持たせるのか?
自分がまともじゃないから相手もまともじゃない、と考えているのか、
自分が「国籍」でしか人を見ないから相手もそうに違いない、と思いこむ、そう言うことなのかな、、
「中国人」「韓国人」に対しての差別意識をもつことと、歴史認識は関連するようで、
都合の悪い歴史を抹消したいのは都合の悪い自分は存在しないことにしたいってことか。
自分が相手を「国籍」で差別したいから相手も差別することの可能性を「受け入れる」ってことなんだろうか。
これは「差別されたくない」から「差別はしない」というのの「表」「裏」なのかな。
それとも非の打ち所のない国家である日本=素晴らしい私であるから「差別」も「おっけー」、かな?
ところで、私は「イチゴ畑」なんてノー天気な言葉を見たとたんに「しゅーりょー」となるんで、
そこをきちんと読んで真面目に応対する人を心から尊敬する。私には絶対できないぃぃ、、、