雑記。

昨日は中国人親子に過去と現在の自分を見出してつい自己憐憫にふけってしまった、、辛いよなあ、お互い。(涙)
でも辛い、辛い、とばかり言っては少子化を促進させることになるんで話は3分の1以下に聞いてほしいものだ。
私は大体「人の話は聞かない」を実践しております。(だからこんなになるんだよっ!)
子供って育つともう自分とは別の人間であることがはっきりしてくるんで、扱いが難しくなる。
ある程度になった子供のことを人に話さなくなるのは、話せなくなる、と言うところもあるなあ、プライバシーにもかかわるし。
そして別のことを始めるのは親として少しは育児に「長けてきた」(これは「ずるくなる」の意味もある)ので
自分を「逃がす」他の方向を見つける、それが「韓流」であったり「丸山真男」であったりするわけだ。(私だけか、これは)
子供の受験記はそのうち下の子のために残すことにして(でも3年後、上が大学受験だよ、ああ「地獄」を見る、、)
現実逃避に素敵なワイン紹介について書きたいけど、それではあまりに逃避しすぎるんで、(禁酒、禁酒!)
最近にぎわってた「南京事件」の雑感など。
「あった」と言うことを認識しないと「ゼロ」地点が出来ない、と言うか、一体何から逃げようとしているのか
いわゆる「否定派」の人たちの存在は私には不思議でならない。「あった」からと言って何をそんなにおそれるのか。
私はあまりに知らされていないことの方が恐ろしい気がするんだけどな。
少なくとも海外で認識されている程度のことはきちんと理解しておかなければ、
本当に「内向きの議論」(これは「肯定派」とされる人を揶揄するときに用いられるのを見かけたが)しか出来なくなる。
「否定派」とされる人の非常に典型的なパターンをまとめてくれているのを面白く読んで、私がもう一つ不思議に思うのは、
「否定派」の人が「どうして自国のことをそんなに悪く言いたがるんだろう」とか「自分の国が嫌いなんて」と言い出すことだ。
「他の国でこんなに自分の国を悪く言うところはない」って、結局「あった」と肯定してる、と見ていいんですかね?
「自分の国を愛せない人はこの国を出て行けばいい」とは、もう何を況や、この「愛国心」、どう見るべきなんでしょうね。
この「決めぜりふ」はどこでも見かけて、それでもう「終了」なようなんで、
私は「小林よしのりが書いている!」をとくとくとして書く人に対して、「はいはい、終了」と心の底から思うようにがっくり来る。
小林よしのりはこれで「消えた漫画家」にならずにすんでるようなもんだしな、、お仕事するって大事ですよ。
それはともかく、この手の人に本当の「愛国」とは何かを説いても仕方がない、理解できないものを理解させるって無理なような、
でも放っておいたら一蓮托生、がんばってください!と、陰ながら応援いたします、、(あえて名前は出しませんが。)
で、まあ、気になるのがよく使われるいくつかの「決めぜりふ」、「念仏」みたいなんだよな。
宗教右翼」という言葉をネットで知って、私はどうもこの言葉の概念がよく理解出来ていないんだけれど、
今読んでいる丸山真男の「自由について」の中で、維新以来の日本の政治構造と「宗教」、その関わりがふれられていて
やっとちょっと「宗教」と「右翼」が繋がりそうな予感。
私は右翼の名前を使うな、と言いたくなる単なる「馬鹿」に「宗教」をつけたら真面目に「宗教」をやってる人に
申し訳ない気がするな。(と言って、私は「宗教」苦手です。)
「とんでも宗教」っぽいものとそうじゃないものをちゃんとわけて考えるべきか、と思ったけど、
元々「神道」、それも明治から天皇に連なる「政治」としての「神道」はどうも「いけいけどんどん」だったような、
長くなるんで、またこれはこれで別なところで。
自分の国が好きだから、悪いところもはっきりさせておきたいと思うんだよ、他に指摘される前に自分たちでよく理解する。
「この子は本当はいい子なんです!」って、明らかに犯罪を犯した子供をかばう、その「かばいよう」はあるだろう、ってことです。
「うちの子は悪くない!きぃきぃ」と、そんなだから子供が非行に走るんだよっ!と「普通」に言いますわな、
そう言うの「産経」的じゃないですか。自国のしたことを認めないのは違いますよ、やっぱり。