NHK特集「激流中国」を見た。(ちょっと長いです)

日曜日、NHK特集「激流中国」を見て涙した。
サブタイトルは「小皇帝の涙、超競争社会でリストラされた親が一人っ子にかける夢と重圧、爆発寸前の母娘」
NHK特集はいつから「土曜ワイド劇場」になったのやら、香ばしさにつられてつい見てしまったが
中国人の親達と国境を遙かに超えて手を握りあいたい気分にさせられた。
年末「民主主義・中国」をたまたま途中からつけて、あまりのインパクトの強さについ家族全員で見入ってしまって、
その「続編か?」と思われたので楽しみにしたものの、身につまされて泣けてしまった。
「民主主義」の方は「級長選挙実録」で、小学生の級長の選挙活動を赤裸々にレポートしている。
これは年明けに再放送していたのを録画しているのでまた見たら感想を書く。(予定)
「級長選」の方はトップを争う優等生達の戦いだったが、
今回「小皇帝」の涙はトップになりたくてもなかなかなれない子供達が主人公だ。
舞台は地方都市「昆明」の成績(?)上位3分の1である「1級」小学校5年生一クラス、なんとクラス人数50人以上いる。
ここでも当然成績が1番の子供が級長で、その子はともかく、それに習え、これを越せ、と
親に叱咤激励される子供達の悩みに焦点が当てられる。
「いくら勉強してもお母さんは満足してくれない」「私をちゃんと見てくれない」と、国柄の違いを超えても
普遍的な親への不満を子供達はあらわす。そしてそれに対応する親もまた、国、多分、時代を超えて
常に親が子供に持ち続ける期待と圧力、「私たちよりもいい暮らしをして欲しい」、
そのために必死で今は勉強しろ、と、これを言わざるをえない親たちの状態に私は共感せずにはいられない。
現在、中国の親世代の意識は、たとえば「朱に交われば朱くなる」の例えを用いて、
「勉強の出来ない子と遊ぶな」など、ちょうどまだ30年ほど前の私の親世代の言っていることそのままだ。
(と言って、私の両親は言わなかったが、近所のおばちゃんは息するように言ってた。)
学校自体の雰囲気も私の子供時代と同じく、成績で子供の上下関係が決まる。
グループ分けで成績のいい子同士がくっつく、とか成績の悪い子をグループに入れたがらない、とか、
これを問題視し、子供から「お母さんと分かり合えない」との悲痛な手紙を受け取って親子の話し合いを設ける
良心的な先生さえも番組の冒頭で、子供の将来の夢を1人1人に語らせたとき、
成績のあまりよくない子供が「医者になりたい」と言うと
「成績のよくない人が医者になるのは間違いです」とはっきり言い切ったりする。(ま、真実だよな。)
私世代である教師、親の意識は30年前、でも社会経済はとっくに現代の「グローバル化」の波に洗われて、
両親は定職を失っている人もいる。最先端の競争社会の中に否応なく巻き込まれているのだ。
その中で、「学歴さえあれば」と一人っ子の子供にやりすぎにさえ見える情熱を注いでしまうのを誰が責めることが出来るのか。
子供達はもちろん犠牲者だが、親もまた、より悲惨な犠牲者でもあるのだ。
「自分たちのしている苦労を子供にはさせたくない」と親子対決のような話し合いの場で「私たちを他の誰かと比べないで」と
涙ながらに訴える子供に親も涙声で「私たちも社会の中でやはり比べられている、大人になっても同じなのだ」と答える、
親子でこのどうしようもない社会に向き合わされている現実が寒々と露わになるだけで、話し合いでは何も変わらない。
とにかく中国の今の学校状況はかつての日本と同じく「詰め込み」主義で、ちらりと見たところ
小学5年で日本では今の高校レベルに匹敵する内容をやっているようだ。これには確かに無理がある。
と言って、その中国の政策を今の日本の親世代が笑えるか?と思う。
ゆとり教育」を糾弾する、「私立に行かせないと子供は「負け組」になる」、などと不安を煽られて、
「お受験」熱に浮かされる、日本の親だって少なくはないはずだ。
日本は、今の中国のような学校状況を再び取り戻したいかに見える。
中国の子供への教育熱を人ごとのように思う日本人の親はいるはずないだろう、少子化で一人っ子家庭は中国と同じく少なくない。
社会への不満、不安を無意識のうちに子供への期待と混同して重圧をかける、それでも子供はかわいい、心からそう思っている。
この「グローバル化」の社会でその覚悟をほとんど持たされることなく、
いきなり強引なその「自由競争の世界」に放り込まれてしまった多くの普通の中国人家庭と私の家庭もまた同じだ。
そこで親として出来る限りのことを子供にしてやろうと努力している、
その努力が空回りであっても、空回りであるからこそ私は泣ける、これは私の姿でもあるのだと。
お受験を私はさせていなかったが、この社会でよりよい暮らしをして欲しいとやはり常に願っている。
それなりに家庭で無理なく勉強させて、成績もいいが今初めての高校受験に立ち向かったとき、
やはり子供にいやがられても勉強を強いていること、極端な親の熱意とそれほど変わるものではない。
がむしゃらであっても中国でも「親」であることを「努力」している、と私は見た。
父親は貧しくて小学校も出ていないのに今は「経済自由化」の波に乗って成功している、
でも時間がなくて家庭を試みる余裕がない、母親1人で子供を育てている。
彼女が外国のカメラの前で「1人だからこそ、失敗は許されない」とその重圧を吐露したことを私は立派だと思う。
共に重圧を感じあいながら親子はまた成長していくと、1人で子育てしていると語る母の娘は
社会も学校も「何も変わらない」と番組の最後に語るが、親とは違う価値観を見出そうとその中でもがく、
今の中国では成績はそれほどでもない子供達に私は希望を持った。
「成績だけで私たちを見ないで」と訴える子供達はかつての私世代でもある。
親を見ても、子供を見ても、身につまされる、それでも少しは何かが変わり、よりよい方向に向かって欲しい、
と願わずにいられない。(かつての子供は育って「こんな」なのか、と言われたらそうなんだが、、、)
中国は古くは「科挙」の国なのだから、その進学熱もある程度割り引かなければいけないな、と思いつつ、
結局、「親」であることはどこの国であっても「辛い」。多分、「時代」を超えても、と泣けたのでした。
(ああ、長かったっす)