雑念。

「わかりやすく書く」とは功罪があるかな、と。
小熊英二さんの「民主と愛国」は戦後の思想の流れを追う、と
大きくタイトルをうってたような気がするんで
個々の人物像がいままで抱いていたイメージと違うからと言って反感を抱くのは
読み取り方が間違ってるんじゃないかと思うが、
世の中には自分たちだけが「善」だ、「正しい」と信じ込む人間がいるからなあ。
その自身への狂信ぶりは一体どこから生まれたのか、
どうすればそのような人間に育たないですむか知るために
私はとある日記を丹念に読み込もうとしている。
がどうも読まれるのがおいやらしく、すぐプライベートモードにされる、
はてさて個人的な記録はプライベートモード解除の後は削除されているかな?
雨だれにも傷つく人のようだ。
それはともかく、私は小熊英二さんの一つの手法として著名な人物を丹念に追いながら、
「民主」であるとか「愛国」であるとかが時代の中でどのように変容していたかを
示したことを高く評価する。
かの「極東ブログ」ではその手法などありふれたものだと切って捨てていたように思うが、
小熊英二さんの目指したものは小林よしのり的説得力に対応するものであるので
その切り込み方も正当性がないように感じられる。
一般人に「わかりやすく書く」とはそれほど反感を抱かれるものかと私は不思議にも思う。
間違いなく一般人である私が楽しく読めて感動もした、それが「亜、インテリ」には腹立たしいものか。
そもそも「民主」や「愛国」とは一般民衆のものではないのだろうか?その辺がどうも納得いかない。
というわけで、小熊英二「民主と愛国」を手元に置くことにした。アマゾンにて注文。
もう1度読み直して丸山真男像を確認する予定。
実家の父が高校生の頃に丸山真男を読んでいる私に
「その人は右翼だよ」と言ったのに、いまや何故か丸山真男は「左翼」、
この不思議を小熊英二さんの「民主と愛国」で少し理解できた気がした。
立つ位置が変わらなくても差す光の方向でその陰の位置は変わる、
光はどこから当てられるか、そしてその光に向かって顔が上げられるか、
あるいは差す光に向かって走り出さずにはいられない人間であるか、
丸山真男清水幾太郎の違いとはそういうものではないかと。
常に光が当たる方向に向かわずにはいられない人か、
あるいはいつも光が当てられる、でもそれがどこから当てられるかわからない、
その緊張感にただ黙って耐えられる人、
あるいは全く気にならない人(亡くなられた小田実さんがそうではないか?)
知性や知識はそういう人が遺した光の帯のようなものかと、考えられるようになったのは
「民主と愛国」を読んだおかげで、まさに「蒙を啓かれる」思いだった。
お盆で、終戦記念日で、色々ある中で、とりあえず、残すために送信。