ネットを見ていると、「知性」というのはどれほど「知識」を掻き集めても身につくものではないのだと感じることがある。
「知識」の量と、「知性」の違いをネットで「議論」テーマとして好まれる「差別」であらわせば
「みんな「差別はよくない」は好きだけれど、実際に差別されているひとは好きではない」がわかりやすい気がする。
つまり、「差別はよくない」と「言う」ことは好きでも、実際に差別された人のことは「どうでもいい」、
「知識」の「対象」として「差別されるかわいそうな存在」は「必要」、しかしその「かわいそうな存在」の現実的な痛みにつき合う気は毛頭ない。
差別が「何故よくないことか」の知識の「量」を集めることが出来ても、差別された側の痛みを理解する能力はない、
おそらくはその「必要性」を感じないのだろう。
そうした愚かしい傲慢を認識することがかけらほどのもない人間がなぜか「知識」の「量」を誇る、ほぼそれを「知性」だと信じているかのようだ。
「知性」はたぶん、選ばれた人間だけが身につけることの出来る特権だ。
「知識」を持ったあと、その「知識」を本当に必要としている人を理解し、共に生きようと努める、それが出来て初めて「知識」は「知性」となる、
そのように恐ろしくむずかしいことができる人はそれほど多くはいない。「知性」を身につけるのは、ほとんど「才能」といっていいのかもしれない。
故に「知性」は輝かしいのだろう、さも、それがあるかに見せかけようとする人が多くいるのはそのせいか。
「知性」はよりよき道へ多くのひとを導くものであるだろうが、無駄に「知識」だけしかない人間が騒ぎ立てればより悪い方向へと多くのひとが向かう。
私は人の意識が何をきっかけに変わっていくのかに興味がある。
ネットを見ていると、差別心を意識しない人間が自身の「知識」の量だけで気に入らない人間を嘲り、
言葉の無理矢理な力で「嘲られて当然」と、嘲られた側をとりあえずは黙らせているが、理不尽に嘲られたものの反動がどこに向かうか、
自身の「知識」の「量」に酔っている人間には見えないようだ。「私に嘲られて馬鹿が浄化された」とでも思うのか、そのおめでたさには涙が出る、
猛烈な反発心をいたずらに刺激して育てた後、それに締め上げられるのは、いったい誰であるのか、知らずにいられる鈍感さは、たぶん「知性」とは無関係だ。
「知性」を育てるのは必ずしも「知識」の「量」ではない事実を何度か目にし、
「知性」を持つ人たちは必ずしも「何者か」ではないけれど、巷に確かに存在することを知った私は幸せだ。
「知性」が持つ豊かさは言葉の量ではない、「知識」の量でもない、それが見えない人間に「知性」は見えない。
自分の「生活」にしっかりと結びついていない「知識」は「知性」にまで昇華しないのではないかと最近思う。
立証できるあてはないけれど、ぼんやり、私がずっと求めてきたものが見えてきた気もする。