教えてもらったこと。

最近お気に入りの「電脳ポトラッチ」さんのエントリに、感動。
いいなあ、この人、私が子供に一番教えたいのはこういうことだな。
ちょっとエントリの趣旨とずれてしまうけど、たとえ自分が弱者の立場に立っていたとしてもそこに逃げ込むな、
で、弱者という「利権」を振り回すことが「恥ずかしい」と思う程度の「プライド」を持って欲しいと思ってる。
(自分はどうよ?だけど。)
私の子供達は「ゆとり教育ど真ん中」世代で、そりゃーもー、「洒落」にならんくらい教えられていないことが多い。
でもそれを子供に言ってたら、子供は自分をどこか「被害者」のように受け止めるようになってきた(ように思う)。
これは私の教育の失敗だ、これじゃいかん、と最近私は私が知らなかった、子供達が教えてもらっていることを
ちゃんと話すようにした、「与えられたもの」を「感謝」できるように。
ネットを見渡せば、「左傾教育が」「団塊世代が」と「被害者」ばかりが満ちあふれている。
ゆとり教育が」「バブル世代が」、「私たちはいかに虐げられてきたか!」のネタに事欠かない。
そのくせ「集団自決は軍の強制ではなかった」に大喜びしたりして。なーんや、そら。
実際に死ななくてもよかった人が大勢死んだのに。家族に手をかけたと告白している人もいるというのに。
確かな「被害者」を認めることはなくて、でも自分たちは「左翼教育を施されていた!」の「被害者」、
もうこの醜さが嫌いで嫌いで私はたまらん、もちろんそれは私自身の中にもこういう醜さを抱えているからに決まっている。
でもそんな醜さを抱えるのは私世代までで十分、これから大人になる世代に、奇妙な「弱者利権」の「手法」を残したくない、
たとえ与えられたものが少なくても、それを十二分に生かしてこれからの社会を、世界を、子供達に生きていって欲しい。
「教育」だって、「年金」だって「ない」ワケじゃない、(「年金」はマジでない場合もあるか)
少なくても「ある」のなら、そのことに「感謝」の念を覚えられた方がよほど「生き方」としてはいいんじゃないか?
もちろん、ただ盲目的に「お上」に「感謝」するのではない、
自分を「被害者」と思って「あれもない、これもない」と数え上げるばかりでそこに「ある」「何か」を見失ってしまうのなら、
なんの意味もない、私は「ゆとり教育」もそう受け止めるようにした。
少なくても確実にすべてを覚えられたなら、内容が多すぎてなにを教えられたかさえ定かではない私世代よりずっとマシだ。
年金問題にしろ、医療問題にしろ、知らずに様々な「恩恵」を受けてきた私の目から見ると未来は惨憺たるものだ。
「医療」も「学校」も「教育」も「家庭」も「崩壊」しつくして、世の中は「焼け野原」になったように見える。
でも「焼け野原」に見えるのは「私の目」、今の「子供の目」ではない。
その無垢な目が「焼け野原」になにを見つけ出すのかわからないのに「自分たちにはなにも残されていない、被害者だ」の
「色眼鏡」をかけさせたら、子供だけに見えるはずのものも見えなくなってしまうんじゃないか。
権利意識を持つな、と言ってるわけじゃない、失われたものをいつまでも惜しむのではなく、
これからなにをするか、これからなにが出来るか、それを子供には考えて欲しい。
そうするのに、「被害者」である、の意識は必要ない。
「自分たちには与えられなかった」「自分たちにはなにも残されていない」で、その後に来るものは?
自分たちよりも弱者を攻撃すること?本当の弱者をあざけること?
なくしたものより、よりよいものを目指すことが出来なければ、なんのために生きていくのか。
「ないものはない」からはじめても何かが生まれるかもしれない。
時代の「被害者」であっても、「弱者」であっても、プライドは持て、と、そういうことを教えられたら、、と思うけど
それは親が「教えられる=与えられる」ものではなく、子供が自分で学んでいくことなんだろうな。
良質のエントリを読んでいて、だんだんそういうことがわかってきた。
親にはなにが出来るんだろう。