雑記。

昨日は少々魔がさしてよそ様のコメント欄で「おいた」を。(どこかは「内緒」)
きもち「控えめ」なコメントしたつもりが「chazuke」の「脱力」系、id名ではなんの意味もなく、、、
それはともかく、前回、「親になにが出来るんだろう」と書いて、この「何かが出来る」と考える
親の「意識」が子供を「抑圧」することもあるか、あるいは「監視」している時も、と思うことがある。
比較的、放任傾向のある親を「装って」はいるものの、それでも煙たい存在だろう、
それでも親はなにが出来るのか、やはり考えずにはいられない、これはもう「趣味」の問題かもしれない。
多分、親が、というよりは「大人」が子供にしてやれることは1人で十分「立つ」ことが出来るようになるまで
「寄り添う」こと、それ以上のことはなにも出来ないんじゃないか、と最近考えている。
カウンセリングで大切なことは意見するのではなく、ただ話を聞いてやること、そばにいること、
とどこかで拾い読んで、同じことが育児でも言えるんじゃないか。
親は「保護者」と呼ばれるように、ただ「保護」することだけ、その「保護」がどの程度のものであるか、が常に問題だけれど。
先日「保護」に対応させて「依存」の言葉を用いた人にむっと来たのは、たとえ対象が「子供」であっても
「保護」に「依存」しているかどうか、それは人間の「尊厳」にかかわる意識ではないかと思う。
「保護」されることに必ず対象は「依存」しているのか、私は子供が「親」に「依存」するとは思わない。
子供であっても人としてのプライドは幼い頃から持っている。
また、子供がいるから自分1人では出来ないことが出来る、子供のために何かを我慢(?)できる、
そういう子供の「存在」にある意味「保護」者である親は「依存」している部分もあると思う。
「大人」と「子供」の関係であっても「保護」と「依存」が成り立つかどうか、私には疑問だ。
究極には親は子供になにも出来ない、でもそばにいる、それだけの存在である意識を常に持ちたい。
もうすぐ離れていく、来年には高校生と中学生の子供達に対して過干渉にならないように気をつけようと、
受験生の悶々につきあい、揺れる母は思うのであった、、、
昨日より「おせち」の仕込みを始める、「焼き豚」を少々焦がして失敗。今日は煮た後一晩おいたバラ肉で「角煮」をつくる予定。
何故、私は年末固まり肉料理ばかりを作りたがる?自分的にも、謎。