真摯なコメントに応答して。

長いコメントをいただいたことを受けて、どの程度理解していただけるのか、ある種のリベラリズムに毒されている世代として
考えられることに実は少々違和感を覚えつつ、書いておこうと思う。
私が最近になって初めて知って驚いている事実は私の世代はほとんど政治的な知識、あるいは近現代史を知らない、
これは単に勉強嫌いの私だけの責任か、とも思っていたがある程度以上のごく一部の人は別として、
ほとんど「国策」として私世代は出来るだけ「政治」に関心が行かないように「教育」されてきたようだ。
正直に言えば「沖縄」の激戦のことも私は学校で習った覚えがない。
これは単に私があまりにぼーっとした子供だったので聞き逃していたのだろうと
最近、自分の子供の教科書を見てかなり詳しく現代につながる部分も教えられることに気がついて、反省をしていた。
私は自分と同世代の日記を拝見することが多い。
どうしても興味の傾向が同じなのでそうなってしまう、そしてそこでもやはり自分たちはあまりに近現代史に疎いと言うことを
嘆かれているのを目にする。私だけ、ではなかったようでちょっと安心した。
故に私は情けないくらい沖縄の知識が少ない。
基地問題もむしろ「沖縄対本土」であるより今現在の一点のみを見て「地方対東京(大都市?)」
「明日は我が身」として見ている。
基地があっては困る、しかし基地がなければ(地方財政は)成り立たない、の問題が痛いほどよくわかる。
地元での自衛隊誘致はもうだいぶん前から出されている意見だが実は選挙の度にその話は見えなくなる、
一体どういうことになっているのか本当のことは何もわからない。
でも地方財政を見る限り、それにあくまで「反対」の意見を持つことが許されると思えない。
「運がいい」とは「まだ」私たちの番になってない、の認識の表れだ、いつかは私たちの番なのだ、と覚悟している。
これは「子供」が被害に遭う事件への親としての認識も同じだ。
今回の事件は「子供」が被害者であるのと基地の人間が加害者であるが故に大きな論争を呼んだ。
その論争は自分たちの個人的な意見の表明の集合で良質のものもあれば見るに堪えない馬鹿げた意見もあった。
見るに堪えない、と思うのは私が同じ年の子供を持つが故の反応だ、そうではなければなかなか理解されないだろう。
同じ「子供」であっても、10年以上前の事件の場合は、その少女の「無垢」が強調され、
今回は年齢はたった3歳しか変わらないのに、もう「自業自得」の意見がまかり通る。
もちろん被害状況があまりにも違う、私はあの事件が忘れられない、自分の子供が二人とも「女」で、
十何年も大切に育ててきてあのような目に遭わされたとしたら、どうしたらいいのか、
それでも「基地」が立ちふさがったとき、私は痛みを抱えた子供と共にもう死ぬよりほかない、とまで思い詰めるだろう、
と当時は考えた。
私は「子供」の事件、特にその子供の「性」を意識させる事件がある度、怖くて怖くて仕方がない。
「基地」や「沖縄」の問題を考えるより、それと絡めて今回のような事件にしたり顔で「親のしつけが、、」という人間に
悲鳴のような反応を見せずにはいられない。それは全く端から見れば醜いことだろう。
それでも確かな「意見」なのだ、それを「意見」と受け取ってもらえるためには別な意見も「意見」として書かれるべきだと思う。
ここが悪しき「リベラリズム」なのかもしれない。(私は実はひっそりと自分を「アナーキストかも」と思うんだけれど。)
軍事に対して私個人がどのような意見を持つかと言えば、もっと整理縮小すべきだ、に傾く。
横須賀にいる自衛隊員の嫁である友人の話を聞けば、自衛隊は信頼するに値するかどうか
その中にいる人間(幹部ではあるものの、、、または、それ故か?)がすでに見放している部分もあるので
なんと考えていいのやら、、
私の祖父は軍医として南方でなくなっていて、骨もまだ島に散らばっている。
そういう痛みを受け継ぎつつ、私は今、近現代史を学び直そうと努力している。
いわゆる「お花畑」的正義感を持つには私は「すれ」すぎていて、アンチヒーロー的感覚さえ、もうぴんと来ない。
自分が見下される「知的弱者」そのものの1人でしかないのもよく知っている。
だからこそ、見るべきではない匿名日記と見苦しいけんかをする、それを見逃してやってくれ、と頼まずにはいられない。
沈黙は出来ない。
長々、散漫に、きちんと応答されたことに対していつも感謝を覚えつつ、とりあえず、反応してみました。
明日からは通常業務に戻ります。