雑記。

最近読書が出来ていない、「民主と愛国」をせっかく買ってもらったというのに。私は買った本は読めない人なのか、、(涙)
つか、あの本は重すぎるんだよ、どこにも持って行けない、気軽にどこかでぱっと読める、って本じゃないからな、
新書並みの薄さで分冊していただけたらいいんだけど、途中で読むのをやめる人がいるんだろうな、それでは意味がない。
色々ばたばたしていて、結局丸山真男にも至ってないし、とほほ、P.Dジェイムズの最新本も読んでないしさー。
ところでうさうららさんの魅力的なコメント欄でお勉強させていただいている。
つくづく自分は書くよりも読む方が向いていると思うなあ、私は紋切り型の人間なので、あったこと、思ったことを
脊髄反射的にしか書けなくて、だから「さあ、どうぞ」、となると全然書けない。
コメント欄がにぎわってきて「これは」と思えば何か書かせていただこうかな、と思うものの、
今はまだ「ほぉぉ」みたいな、エントリで勉強させてもらってます。
ishさんの日記も拝見して、好きだなあ、この人、と思ったのでした。私の日記の楽しみ方は一方通行。
コメント欄と言えば、「承認」から「信仰」に至る非常に興味深いやりとりがあって、注目している。
1番初めの「承認」がなければ「自己発見」はあり得ないのではないか、から、「信仰への案内者」がいなければ
「信仰にはたどり着けない」の意見を示されている方がいて、なるほど、と、
でも他者からの「承認」なくしても「自己発見」は起こりうるのでは、とエントリの書き手の方は考えられていて
(すみません、私的理解力で書いてるんで、全然違う話かもしれません、、)
私は、この考え方の方に傾いている。自ずから生まれる「何か」、がきっかけなしに現れるかどうか、
それはまだはっきりわからないのだけれど、必ずしも「1」となる「他者」の「承認」が「必要」か、と言ったら
私は「必要ではない」ような気がする。
子馬が生まれてすぐ立ち上がるのは、母馬が立っている姿をまず初めに見るからなのかどうかはっきりは知らないけれど、
「立ち上がる」ように「出来ている」んじゃないか、人も「承認」なくして自分を「発見」することはあり得るんじゃないか、
そんな気がして、たとえば他人からの「承認」が絶対的に「必要」として、
では、その「承認」が「発見」させるための単なる「テクニック」としての「承認」でしかなかったことに
「承認」を与えられた側の人が気がついたとしたら、その「1」を土台として築いてきた「2」や「3」はどうなるんだろう?
崩れるんだろうか?「無」になるんだろうか?そういう疑問がわいた、
信仰に絡められるとちょっとわかりにくいんだけど、面白いトラックバックも読ませてもらったんで今後、さらに注目。
同じ方が別のところで展開している「大学考」に関しても、
大学は学生に何を求め、学生は大学に何を求めるべきなのか、いづれ大学に入るはずの子供を持つ親として興味深い。
教育は、時間が経ってから突然、花開くこともあるような、
まあ、私だって、クワのみをもらった、としか記憶のない社会学の先生の話されたことの意味を今頃になって「なるほど」と
思い返すことがあるんだから、役にたたんでもなかったな、と、ごめんね、あのときはよくわからなくて、と言うことです。
教育を施すって難しい、教育者の立場からも、親の立場からも。
遠出するんで明日お休みします。