一つの事件。

先日、行方不明になっていた祖母と孫二人がご遺体で見つかった。
事件の詳細はまだ明らかではないものの、親族との借金がらみでの殺人のようだ。
犯人は被害者である義理の姉の度重なる借金に苦しめられていた、とか背景は色々あるだろうが、
何も子供にまで手をかけることはない、とほとんどの人が意見を一致させるだろう。
「騒がれたから殺した」と犯人は孫達にまで手をかけたことを供述しているが、
本当に犯人の幼子への殺害動機は「騒がれたこと」だけだっただろうか?
私は、祖母への憎しみを孫にまで広げたのだと見ている。
「こんな女の孫なんか生きてたって無駄だ」と犯人がちらっとでもそう思わなかったといったら嘘だと思う。
私はこれは「優生思想」の片鱗だと感じる。
「自分は生きていてもいい、でも自分には不都合な他人は死んでしまってもいい」が
「優生思想」を振りかざしたがる人間の論理ではないか。
「優生思想」とは自分もまた「淘汰」される種であるかもしれないことを受け入れざるを得ないことであるはずだけれど、
ある日突然、「あなたはこの世界に必要な人間ではありませんので、死んでください」といわれて、
「そうですか」と死ねる人間が「優生思想」を唱えていると私は思えない。
むしろ自分は絶対大丈夫だと根拠のない自信に満ちあふれているようだ、
現実には、自分より遙かに優れた人間が存在することに思い至らない、貧しい環境にいるに過ぎないのに。
子供に手をかけてしまったことに、どの程度犯人は後悔があるのか、
幼い姉妹を二人とも殺して死体を遺棄したその冷静さに、それは見られない。
この子供達は大きくなったら、また祖母のようになるのだと決めつけて、
自分は「いいこと」をしたのだと血まみれの狂気の中、己を正当化したのではないか、
そうでなければ小さな子供を殺すなんて出来ることじゃない。
「貧乏人は子供を持つな」の思想はこのこととも繋がっていると意識する人は多くはいないと思う。
「貧乏は、また貧乏をうむ」は、事実だ、でも貧しい中でも生きていることは本当に無意味なのか。
生み出された命が常に親族とつなげられるのは正当化できることなのか。
「祖母が自分に悪いことをしたから(?)孫まで殺してもかまわない」がなんの罪もない子供にまで手をのばした、
「孫たちが祖母と同じこれから犯す罪を減らしただけだ」と、犯人は思っているかもしれない。
それに「貧乏人は子供を作るな」とか「優生思想」を高らかにうたう人間はなにがいえるのか。
言えるはずはない、彼を否定するには矛盾がある。
私がいつも不思議に思うのは、優生思想を唱える人に子供が出来なかったとき、
「神様があなたの種を残すことをお許しにならないのです、神様がもう選ばれたのです、あなたの子供はいらないと。」
「神がお決めになられたのです。」の価値観を肯定することが出来るんだろうか?
私なら、そんな「神」は「神」ではない、と否定する。「神」がそんなに「狭量」ではないはずだ、と信じる、
私が「優生思想」を受け入れないのはそういうことだ。
ある日突然、「死ね」と人から言われたくないし、「死ね」と人に言いたくない。
他人に「死ね」と自分「だけ」が言えると思い込む人間に、純然たる「優生思想」はどのような判断を下すのか。
私はそれにも興味がない。その答えもきっと間違っているから。
今は、ひたすら悲惨な事件で失われてしまった子供達のことが悲しい、
たった3才や5才で他人に意味もなく命を奪われた、他人にその「生」の意味を否定された、
そのことがただやるせない。もっと彼女たちは生きるはずだった、生きていいはずだった、祖母とともに。
マスコミにひどい仕打ちをされた父親に、姿を見せない母親に、誰が何を出来るんだろう。
「家族」が支えきれなかった貧しさが事件の一因だったのは間違いのない事だろう。
せめてそのことをもっとメディアは取り上げるべきだ。
「優生思想」なんて言葉はなくなればいい、私は「優生思想」の外を探したい、そこで生きていきたい。