私信。

先日「理想や思想が生きていくために役に立たないのならなんのためにあるんだろう」なんて私のいつものぼやきを真摯に受けとめてくださった方がいて恐縮。
でも、その方の「理想」は多分私が思う「理想」ではないんじゃないか、
その方の場合、その「理想」は明確な「目標」で、「目標」を持ってめざすことは生きるためのよき糧になるもので、
この先もその目標に向かって着実に人生経験を積まれていくことと私は信じている。それがこの先の人生に支えにならないわけがない。
私がほぼ「他山の石」として苦く思う「理想」や「思想」というのは自分のいい加減さをごまかすためにすがるしかないような種類のもので、
一見すると、とても「立派」な「楯」に見える、でもその「楯」にばかりすがっていた人が、その「楯」が古くぼろぼろになっているのに気がついたときどうなるか。
なんといえばいいのかなあ、、、「美化」しておきたい部分は誰にでもあって、そのために都合のいい「理想」や「思想」というものはこの世界にゴロゴロしている気がする、
そういうものにつまずかずに歩いていきたいものよ、といつも思っていて、そう思うと自分の「目標」的なものを見出し損ねていたりして、
40も半ばになってもいろいろと迷うところはあるのよ、、何に迷ってるんだ、自分!とは思うんだけど。
自分がぼんやり吐いた言葉に何かを感じてくださっているのはありがたくて、でも、あまりにもいい加減に言葉を選んでいるな、と反省もしている。
子供を持つことを「泥沼」と書く、屈折した私のナルシシズムに私はとてもうんざりしていて、なんでこんな書き方をしてしまうんだろう、
子供を持つことは「泥沼」でもなんでもなく、それは子供を持つ意思のない冷ややかな人間たちの視線に媚びる物言いだと書いたあとで自分がいやになった。
ただ、子供を持つこと、育てることは、きれい事ではない、でもその「きれい」とは「おきれい」でしかなく、その「おきれい」を
わたしたちは子供を持つことも出来ないくらい馬鹿な人間から押しつけられているのよね、それが「もの書く」世界の定めだから。
ただその「泥沼」を命を育むやわらかな田んぼの「泥」と理解されるのは美しいと思った。
ばたばたしてまとまらないまま、とりあえず。