ある意見。

「かわいそう」と言ってもらいたい人に対しては「かわいそう」と言ってあげるべきなのか、いつも私は悩む。
たとえばもうすぐ死ぬという人にその人がついた嘘を本人が「本当だ」と息も絶え絶えに言い続けたなら
嘘だと言うことをはっきり知っていたとしても私は「本当ですよね」と手を握って言うべきだと考える。
(注:これは私が「出来る」とは書きません、「するべきだ」と「考える」「だけ」です。)
他人が言って欲しい、今すぐ言って欲しいことを言うのは簡単だ、それで人間関係はおおむねうまくいく。
でもたとえば、マンションの屋上から飛び降りる人に向かって「やめておけー!」と叫ぶのは当然ではないのか、
「放っておいてー、私は死にたいんだからー!」と叫ばれても、
「死んでいいですよー」と「死ぬ権利は誰にでもある」なんて言うのは、私は人間としてどうかと思う。
「死なない可能性もある」「彼女の選択を、可能性を妨げる気か」って、そりゃー「窪塚くん」みたいな例もあることだし、
マンションの屋上からダイブしても必ずしも「死ぬ」とは限らない、ものすごく可能性は低いと思うけど。
その低い可能性に賭けてみる人を止めるな、っていうのは正論だが、
私は飛び降りた先になんの関わりもない人が巻き込まれて命を落とす可能性が飛び降りて助かる可能性より高いんじゃないか、
「公共」の「道徳」を考えればそういう見方も出来る、と書いておく。
大野先生のエントリを拝見して、そのブクマも読ませていただいて、非常に頭はいいかもしれないが人の悪いぼくちゃんが
「そういう経験を積み上げて今の大野先生がある」ってのは、それで、あなたは大野先生を高く評価されているのか、
そのおっしゃることが何もかもすべて正しいと認められるのか、と思った。
それから、「個性」というものをどうとらえるのか、
そうした経験からなんとかはい上がってこれたのは大野先生だからじゃないのか。
誰でもが出来ることではない。
私の知り合いでそういう関係になって最終的に心の病にかかって、
もっとも女性として楽しいはずの時期を病気とつきあうことで費やされてしまった人がいる。
その経験が、長いはずの人生をより豊かにするのなら最終的には「よい経験」、になるのかもしれないが、
そう「できる」人は滅多にむちゃなことはしない。
まだその頃、若かった私には、そのことがわかっていなかった、
「あなたにはわからない」と言われたら「そうだよな」としか思えなかった。
「彼女がいても別の女とセックスできるような薄汚い男があんたはいいのか」と私は言ったが、当然、猛反発をくらって絶交された。
私は、ずっと彼女の話をほどほどに聞いてやってあまりにも深く踏み込まないように
最後まで手を離さないでいるべきだったのではないか、と今でも思う。喧嘩するべきじゃなかった、と。
私は情けないほど恋愛経験が少ない、自己防衛本能があまりにも強くて、彼氏いない歴、結婚する直前まで、だったりする。
異性の友達はたくさんいても、何となくうまくいきそうであっても
「あんたは石橋を重機でぶっ壊して「あー良かった、わたらなくて」と言う女だ」とされた人間だ。
「焦り」がなかったワケじゃない、でも「焦り」は「波」のように来た、
その「波」に乗ったときに「橋」を渡ったらよかったのかもしれない、そうしたら別の私もあり得た、と思わないでもない。
でも「波」に乗った状態で「橋」を渡った後、果たして私は本当に「私」でいられたか、私には自信がない。
その時「出来なかった」ことは「出来なかった」ではなく「しなかった」と思うようにするのも、一つの生き方だと思う。
今の私は「出来なかった」ことを「やっぱりやらないで良かった」と思うずるい人間になっている。
私は強い人間ではないと言うことをあの頃も、今もよく知っている。
同じ経験をしてもその経験をよりよく活かせる人はそう多いわけではない。
大野先生がどうか、また件の彼女がどうなのか、私は大野先生は経験を乗りこえた立派な方だと思うし
彼女もそうあって欲しいとだけ書いておく。多少は関わりを持った私の、これが一つの意見だ。