好きな話。(その2)

「史上最強主婦列伝」があれば、間違いなく「殿堂入り」した上に「聖者」として祭り上げられること、
間違いなし、のダーリンママの元にへっぽこ嫁な私が使わされたのは何らかの遺伝子上の間違いが
ダーリンにあったのだろうと、想像している。
ザッツ、「雑」な私が苦労した、と言うよりダーリンママの心痛が激しかったと気の毒に思う。
ダーリンのおうちは戦前に建てられた平屋で、昔、「職住一致」だったので敷地も広い。
それを常に美しい状態にキープし続けたんだからダーリンママの努力は私の想像を遙かに超える。
冷蔵庫の中までぴっかぴか、だからなあ、今も。
ダーリンの実家は「他人」を常に「入れる」家だったのでそうなった、と私は考えている。
人を雇って、食べさせて、誰にでも、「何が」「どこに」あるのかわかる状態にしておく必要があった。
家族以外の人間が出入りする家の場合、「他人の視線」を「意識」しやすかったんだと思う。
元々、ダーリンママのご実家も大きな酒屋で、やはり人の出入りが激しくて「家」というのが家族の「内」のものではなく、
多分に「外」に向けている「場」でもあった。
誰が、いつ、のぞくかわからない引き出しの中まできれいにしておく、
「隙のない世界」に家を作り上げておかなければいけないこの緊張感、
きれいな家、というのはいつもこれがついて回る気がして私はちょっと苦手だ。
よく片付いた部屋、とは実は「攻撃的」なんだと思う。
「敵」を迎え入れる場所、のような、まあ、最近は「応接間」とかあるいは「奥」だとか、そういうスペースがないから
他人を自分たちも使う「リビング」に通さないといけないんで、何を見られるかわからない、
それがわかっている人がよく片付けるように感じる。
そういう人はよそに行ったら必ず「何か」を見るんじゃないかな、そして「判断」あるいは「評価」する。
(でも、ダーリンは雑誌とかで書庫や書斎、本棚が写ってたら血眼になって見る、見る、
そして「勝ったー!」とか「こんなモンがあるー!」と騒ぐ、騒ぐ、でも「片付けない」、一概には言えないかな?)
私も見ているのは見ているんだけれど、どうもそれで何かに結びつける、と言うことがあんまりない気がする。
情報を入れて何かを「導き出す」、「回路」に重大な欠陥でもあるか、
大体「ふーん」で終わらせてるんで、あんまり良くない、だから引き出しの中まできちっと出来ないのかも。
「整理する」とは、ここにはあれがあると私以外にわかればいいか、で終わらせてるんだけど。
「私を責めている部屋」と、友達に言われるのは悲しいんで何とかしたいと思っているものの、「片付ける」とは
「捨てる!技術」の辰巳渚さんが書いたように、「プラスをマイナスにしていく」「ゼロに戻す行為」で、
マイナスにしていく行為は案外簡単なんで、でもそこから微妙な「プラス」を加えるのはものすごく難しい。
それがいわゆる「センス」ってもので、何なら「見せていい」のか、人が何を見て、どう評価するのか、
よくわかっていないと出来ないと思う。当然、「なんとかせねば」と思いつつ、相変わらず部屋は「禅寺」、
「禅寺」も個性だよねえ、、、なんちゃって。
昨日ついたブクマを読んで、「片付ける」「整理する」は、同じようであって違うのかな、と考えた。
「整理する」は「分類する」だけど、「片付ける」は「捨てる」だし、だから片付いてないように「見える」部屋でも
住んでる本人には「整理」されていて、あんまり生活するのに困らない、意外に「機能性」があったりして。
「片付ける」はなしについてはいくらでも「引き出し」があるんでだらだら書く(予定)。
「片付ける」、のは家族に「コレクター」がいる場合と、お子さんが小学中学年になるまでは、
「あきらめる」、が精神衛生上よろしいかと思います、、、