好きな話。(その1?)

最近、すっかり活動家と化した私は昨日は小梨さんのところにもおじゃまする。(そのうちやめます)
「片付けられない母」とは、私の実家の母のことじゃー!と、
先日、入院やらあれこれあったとき、何に一番うんざりしたかって言うと、実家を片付けなければいけなかったってことで
片付けるのは全然苦にならないんですが、その後、未だに「あれを捨てた、これを捨てた」と文句を言われる始末、
人んちのモンを捨てるのはそれなりに大変だったっちゅーに、病院掛け持ちして回ってやったっちゅーに、
何たる恩知らずな。(いいけど。)
小梨さんはあずみぃさんが先日「片付けられない女、、」と書いたことにふと反応されたようで
(べつにあずみぃさんの無茶苦茶部屋が汚い、ってわたしは思わないし、小梨さんも思ってないと思う)
書かれた状態に、程度の差はあれ、昔の実家の雰囲気を感じてついコメントしてしまった。
小梨さんは書くのがうまいんで、その状況が激しく迫ってくる、やだやだ、そんなお部屋、みたいな。
片付けられない、ってことは捨てられない、ってことでその「捨てる」行為を異様に「怖がる」んだよね、うちの両親の場合。
「ない」という状況に耐えられない「弱さ」みたいなのがものを抱え込む、強迫観念なのかな、「捨てられない」というのは。
なーんてえらそーに言いながら何となく増えていくものを現在放置中、年末までには捨てるよ、捨てるよ、、捨てるよ、、、、
「部屋が片付いてない」の尺度は人によって違っていて「ごめんなさい、散らかってて」と通してくれた部屋は
雑誌が数冊テーブルの上に置かれただけ、みたいな、「どの口が「散らかってる」っていいますかね」
と言いたくなるような人もいれば、「この部屋に私を入れた勇気あるきみをたたえよう」みたいなすごい部屋もある。
どっちが好きかって言うと、私は後者なんだな、「すごい、ここまで散らかせるあんたはえらい!」と尊敬したくなる。
毎日が邪魔モノを取りのけることで始まりそうな家がある、ああっ、片付けたい!
私は友達がいつ来ても「禅寺」とか「片付けられない私を責めてるような嫌みな部屋」と文句を言われるくらい
すっきり「見せてる」けど、これは「見せてる」だけであって、大体私のお片付けの極意は「臭いものにはふた」で、
何かあったとき「ごちゃ」っと放り込むスペースを確保してある。
「見せる収納」なんて、あれは「嘘」ですよ、そんな高度な技術、素人が手を出しちゃいけません、
と親しくしている年下の知り合いには説いている。一時期、新築ラッシュで、「家を見せてください」と頼まれることが多くて、
その時「どうしてこんなに片付いてるンですか?」って、そりゃーあんたが来るからだよ、と言うのもあるが、
まず、「見せない」、これに限る。納戸はあればあるだけよろしい、サイドボードはガラスじゃないのにしろ、とかね。
(サイドボードは中に入れるものにどれだけ気を遣うか、食器棚は引き出し形式のがベストですよ、私には。)
で、「ごちゃ」っと入れたものをどうするかというと「ごちゃ」っと入れたまんまにするのが、私の情けなさ。
きれいに「見える」けど、引き出し開ければ雑然、としているのが悲しい。
こういうのって自分の人間性をよくあらわしていて時々いやになるな、
引き出しまでぴちーっときれいにしているのが本来「きれい」のあり方だもの、
ものが散乱しているのに意外に、引き出しの中はきれい、っていう人がいるからね。
どっちかって言うと、実家はそういうタイプだった、雑然、とした中にある種の「秩序」がある、みたいな。
細かいところはきちんとしているのに大きなところで散らかしている、ここら辺がお片付けの難しいところ、
つまり「見られる」ことをどこまで意識するかで、「片付いている」の印象を他人に「与えられる」。
あまりにも凄惨な家の状態の人とは「捨てられない」もあるけど、
ある種の「人の目」という「意識」が欠落している気がする。あと、何故か不必要なものを買いたがる。
お片付けは好きな話なので続ける(予定)。小梨さんの新しいエントリもわくわくして待つ。
うちの実家の場合、片付けない、捨てない、は母だけじゃなく、父も祖母もだったんで小梨さんとはそこが違うなあ。
結婚してだから何よりも困ったのが史上最強主婦、「きちんと」ダーリンママとの「確執」であった、、(そうでもないか?)