「しあわせーって、なんだーっけ、なんだーっけ。」

と、かつて明石家さんまが歌っておりましたな、わたくしが長澤まさみのように若くてかわいかった時期ですが。(嘘)
男友達と映画を見に行った帰りにふと歌って「幸せにして欲しいの?」と聞かれて「げぎょぎょ」と思った覚えがあります。
いや、別に私は1人で十分に幸せなんで、どうしてこの男が急に「幸せに『して欲しい』の?」なんて聞くのか
非常に不思議でしたな、以来、一緒に遊びに行くのはやめにしました。
あまり深い意味もなく、私は「鍋の歌」としてこれをよく歌いますが、よく考えてみればかなり深い歌だなあ、と
今更ながら思ったり、結局、明石家さんまは独り者として50をこえてしまいましたな。
昔話はさておき、個人の「幸せ」ってやはり個人で違うのが「当たり前」であって、何を「幸せ」に思うか、
そんなものは放って置いて欲しい、と思うのが「幸せ」じゃないか、と「人並みの幸せ」と言われても何を人並みと思うか
個人で全く違うんで、私が幸せかどうかは誰も決められないし、他人が不幸せかどうかも本当はわからない。
他人の不幸は蜜の味、なんて奇妙な言葉がありますが、
これを本当だと思える人はものすごく幸せなんだろうな、と思わずにはいられない、
不幸はいつ、どこから降りかかってくるかわからない、幸せって、はかないよなあ、、、と感じさせられて、
「蜜」の味がしますかね?私はどちらかというと他人の不幸は見て見ぬふりします、
「いや、知りませんでした、知りたくもありません」でスルーしたいな、それが一般的じゃないですかね。
それでもまあ、不幸が降りかかってきたとき、人に話さずにはいられない気持ちもわかるんで
「そうかそうか」と聞くときもあり、話したい気でいる、話した後、空しい気持ちになるのもわかるものの、
「不幸」を「話す」、「書く」のはよくわかります。
一方で、あまりの幸せ感で、誰かに話を聞いてもらいたい、ついべらべらと後から思えば顔から火を噴くようなことを
「話す」「書く」のもわかるんで、まあ、好きに話して好きに書いて、でいいんですが
私が実生活でいつも不思議に思うのは妙に自分が幸せなのを他人に「確認」してもらいたがる輩で、
人が家庭の不幸を話している途中に割って入ってきて、何故か「自分はとても旦那に愛されている」
「子供もかわいくて出来が良くて幸せだ」と、「おい、『K、Y』」、と言いませんけど、そういう人は、何故そんなに
「幸せ」な自分を「演出」したいのか、そして何故これを私が不快に思うのか、永遠(?)の命題でもあります。
とはいうものの、30を過ぎてあれこれ経験していくと他人に「幸せ」を確認したい人の大きな「穴」を見たりするんで、
見たくもない、本人も全く気づいていない、その深い、黒い「穴」をうっかりのぞいたりして、
ああ、もう私は「幸せ」を見せびらかす人も憎めないんだなあ、腹を立てられないんだなあ、と実は悲しく思っているのです。
幸せは「一粒でかりっと香ばしく」、人様にお見せするようなモンじゃないはずなのに、
「私がどれだけ幸せか」と数え上げているようなお方は本当は不幸を告白する人より遙かに不幸だったりするんです。
でも気がつかない、気がつきたくない、じゃなく、気がつけない、だから無意識に他人に「幸せ」である自分を
「承認」するように「強要」してしまうんだな、私は人に「強要」されることは嫌いなんで反発するのかな、と
でも本人は自分は「こんなにも幸せ」と言ってるんだから、やはり「幸せ」と思ってあげなくちゃいけないのかな、と
やっぱり「しあわせーって、なんだーっけ、なんだーっけ」と歌うのでした。特にオチはありません。
「私はこんなに幸せでぃーす!」とハイテンションに叫んでいる日記が私は一番怖い。
日々、それで彩られている日記がすっごく怖いのです。
ああ、そして怖いもの見たさだったりする自分、またそれも怖い、、、
ところで、うさうららさんから丁寧な返信をいただいたので、遊びに行ってきます。