トラックバック、もらってます。

たとえば「女であるのは不幸だ」という考えがあって、それがもし正しいことであれば確かに女は全員不幸なんだろうが、
「私は女であるから決定的に不幸だ」とずっと繰り返すよりは
「だからどーした」と開き直って、別の「楽しみ」を見つける人が私は好きだ。
あるいは「女やめます!」と整形に走るとかね、自分はしないし、いいことかどうかはわからないけどそれも一つの解決方法かな。
「女やめます!」で整形に走るとしたら、それは世間一般の押しつけられた「価値観」にどこまでもこだわっていく、ということで
なんで、自分が作ったわけではない「価値観」をそんなに大事にするのかなあ、と不思議ではあるものの、
どうしても自分が「女」であることに違和感がある、っていうのは私にはよくわからんのでそれもありなのか。
それはともかく、「女である私は不幸だ」と言い続けて女でなくなることは決してないので、
それよりは「女」であることで多少何か他にいいこともあるだろうさ、と「信じて」、日々やっていく方が「幸せ」じゃないのかな。
私は「不幸」を「記録」することは悪いことじゃないと思っている。「幸福」を「記録」することもそうであるように。
ただ「幸福」を「見せびらかす」のが見苦しいように、「不幸」で「他人を攻撃する」行為も醜い。
まあ、「見せびらかしたわけではない」「攻撃しているつもりはない」と、エンドレスな話になるが。
なんだかねえ、「幸福」の認識がまるで紙切れのように薄っぺらで、そうなるとその人の持つ「不幸」まで安く見える。
「美人」であるとか「金持ち」であるとかが絶対的に恵まれていて、それで世間で渡っていけるかって言うとそれは違うんだよな。
確かに「メリット」はあるだろうけど、「メリット」は絶対的に「デメリット」も付随していて
「メリット」を受け入れたときにもう「デメリット」も否応なく受けとるようになっているんで、
押しつけられた「不幸」と同じ、逃げようのないものでもあるんだよね。
「不幸」である人間が与える不愉快を、「幸福」に見える人間は我慢しろ!っていうのはちがうね。
こういうことを言いがちな人が何故かある種の悲しい「フェミニスト」を攻撃するのは不思議だ、やっぱり「同族嫌悪」?
「おまえが努力家なのは持って生まれた才能だ」と、がんばった人を攻撃するのは簡単だ。
個人が必死で手に入れたすべての権利を「無」にかえてしまう、これがいわゆる「弱者暴力」なのかな?
学校で、病院で、いわゆる「クレーマー」的な存在ってこういう論理なんだろうと私は思う。
実際、昔、子供を連れて遊びに行ってた公園で「なんで病院に金なんて払うの?」「医者は金持ちなのに」と
子供を3人とも、救急車で病院に行って産んだ、でも検診も受けてない、当然お産の費用も払ってない人にあったことがあるし。
「病院は儲かりすぎてるから」って、確かに低所得者向け住宅に住んでた人だったけど、やっぱりそれって違うでしょう?
「幸福」とか「不幸」とか、色々考えることはあるんだけど、
私は「女であるから不幸だ」と人に言われてもそれは違うってことを1人で探す人間、
同じように「あなたは幸せに違いない」と言われても「本当に?」と思うしね。
昨日書いたものにトラックバックがついていて、私は楽しそうに「日記」をつけてないらしいが、
まあ、日記ってのは楽しくつけることもあれば悲しくつけることもあるんで。
でもネットは楽しいですよ、「はてな」も面白いと思います。
ただ、外から眺めると「偏ってる!」と見られるのは仕方がない部分もあるんじゃないのかな、
「不幸自慢、最強!」になると。
私は大体何でも楽しめるんですよ、どこででも何とかやっていける、
そこが私の「幸福」で「不幸」でもあるんだけどあんまり理解はされませんねえ、、、