「死」を想う。

ホイットニー・ヒューストンが亡くなって、あんなに美しくて才能あふれた人がこんなに早く、たった一人でなあ、、、などと、まず一番に考えて
少し前なら「すべてを持っていても幸せにはなれなかったのかも」などとしたり顔でうなずくところなんだが、最近は変わってきている。
以前、クロワッサンで彫刻家、船越桂のインタビューを読んで、その中に
ゴッホは生きている間はまわりに認められなかったけれど自分の絵が変わっていくのを自分で見ていた、そこにはある種の「幸福感」があったんじゃないか」と、
つまり、その死の瞬間が不幸であったからといって、その生涯すべてが、否定されるべき「不幸」ではなかった、と私は受けとめて、
たとえ早すぎる死であったからと言って、「不幸」であった、と言うわけではないんじゃないか、などと、
年をとると「日和って」哀しいことは考えたくないのかもしれないなあ、、
でも、亡くなった人の生涯が幸福だったか、不幸だったか、なんて誰にも決められることではないんだよね、それは亡くなった本人だけが知っていること、
生まれてくるときは、「母親」が一緒で、たった一人で生まれてくる人などこの世にはいない、でも、死ぬときは一人、
「心中」と言っても、本当に死の瞬間も同じでつながっているとは思えないし、常に死は孤独なものなんだろう。
先日、朝日新聞の土曜版に遺品整理の人が載って、一人で死んだ人の後始末について壮絶な話をしていたりして、
記事によると「死んだあとくらい、きちんとしてあげよう」と考える親族は多いそうだ。
ずいぶん前に、まったく面識のない縁者が死んでその連絡を受けたものの「引き取れない」と断った知り合いがいて、
どこかでそのことにわだかまりを感じてしまっていたんだろうな、と今さら気がついた。
まったく縁がなくても、どこかでつながりのある人が亡くなったとなると、人はやはり想うところがあるんだろう。
私が一人で死んでも、少なくとも後始末する人が困らない程度になんとか手を打っておかねばな、
子どもがあとで後ろめたい思いをしないですむようにきちんとしておきたい、などと思ったのでした。
たぶん、私は幸せな気持ちで死ぬと思う。
ま、まだまだ死ぬ気がないし、死ぬまでにしておきたいことは山ほどあるし、まず死ぬまで健康でいたいし、どんな死に方をするにしても、
とりあえず、毎日楽しくすごそう。