雑言。

光市事件の被害者は、自分の命が奪われただけではなく、自分の子どもの命も奪われて、彼女の命をこの世につなぐ機会は永遠に奪われてしまった。
彼女の子どもはこの世界に2度と生まれない。
二つの命が失われたことがどれほど罪深いことか、それが「死刑」で償えるかどうか疑問には思うものの、
彼女たちが当然持っていた「権利」の理不尽な剥奪を、どこまで「法」は考慮するのか、「法的に、正しい」はあまり個人を尊重するものではなさそう、なのが私の印象。
「正しくあれ!」はあまりにも被害者にされた人間の権利を侵しすぎないか?と最近思うようになってきて、
今回の場合、事件の「過程」ばかり重要に考えてその「結果」はないがしろにされているように思った。特にネットの「良識人」たちは。
結局、同じ立場に立たされたとき、同じことをせずにいられるか?ってことなんだよね、、
私はどうだろう?死刑は望まないにしても、「あれは不幸な生い立ちのかわいそうな少年が引き起こしたちょっとした事故です」とされたとき、
冷静にその意見を受け入れられるかどうか。
見ず知らずの人間の生い立ちの不幸を被害者に「受け入れろ!」は耐え難いだろう。それはもはや「圧力」でしかないのだから。
たぶん、「死刑なんてひどい!」と憤る人の心情の元にあるものは、「被害者遺族が再婚するなんてひどい!」と同じものだ。
被害者家族の死刑の訴えを批判することは、被害者およびその家族に「社会のために、個人の感情なんて押し潰せ!」と言うに等しいのだから。
あまりにも「法的には〜」という賢い意見を読み過ぎて、うんざりした。失う不幸の上に重なる不幸、被害者はいつまでも、どこまでも「被害者のままでいろ!」とされる。
いろいろなところを読み歩いて、「母親に甘えたい」不幸な男にいきなり抱きつかれても、女は抵抗をしちゃいけないんだな、
抵抗して命を失っても「しかたがなかった」と弁護士には言われるんだなと思った。
抵抗しなければ、死なずにすんだのか?やはりあの解釈には納得できない、女は「かわいそうな男」のためにならいくらでも犠牲になってもいいようだ。
女性の当然の抵抗が、まるで「落ち度」であるがごとくに語られる、そこがいちばん腹立たしい。
昨日、ニュースの特集で「孤立死」が取り上げられていて、「少子化」とは人の死に方まで変えてしまうんだろうな、
自営業の幼なじみが先日「最近、結婚式場がどんどんつぶれて、かわりに葬祭場がどんどん増えている」とぼやいて、そういえばご近所に出来たな、と思っていたら
「葬式の積み立てを私らはしなきゃいけないみたいよ」
ううっ、そんな案内状がポストに入っていたが、「縁起でもない」と捨ててしまったわ、あれは「自分自身の葬儀の費用の積み立て」だったのかー!
てっきり、「自分の親の葬式のため」かと思ってた、なんと、うっかり。
そのうち葬祭場の人が「孤独死」をしないように見回りをしてくれるようになるのかも。そうなると「利用」したいかも。トホホ。
自分の死の後始末をも自分で考える時代になったのだよなあ、、それがいいのか、悪いのか。
私たち兄弟を育ててくれた祖母が亡くなったとき、わたしたちは3人とも人目をはばからず泣いた。
それを見た亡くなった伯父さんが「いい死に方をしたなあ」と言って、若かった私にはその意味がわからなかったが、今はわかる。
そういう死に方が出来ればいいなあ、と思ったり。なんと、うしろ向きな人生設計よ!