雑記。

光市事件遺族の結婚に驚く人がいることに驚く私は「中年」なんだなあ、としみじみ。
彼はこの先、再婚しようが子どもが出来ようが、やはり一度、理不尽に奪われたものの記憶を失うことはないんだよね、
その痛みを一人で抱えたまま長い人生を生きることなく、またもう一度、誰かと人生を始める勇気を持ったことは恐ろしく努力が必要とされた行為だとわたしは思う。
何げなく家に帰って家族がいる日常を突然奪われた人間が、「当たり前の日常」をふたたび信じることが出来るかどうか、
簡単ではないのだよね、それがわかるのは年をとった「おかげ」か。
ネットでは死刑判決に疑問を呈する人が多いことにも私は驚いていて、
いやー、「法の下の平等」が骨の髄までわかっていらっしゃるかたが多い、「カッコ、笑い」ってところ。
被害者遺族が「極刑」を加害者に求めるのは決して誰にも責められる話ではないのだよね、
何故、「被害者」的立場に立たされたとたん、「神」のように「無欠」な精神を持たねばいけないのか。
たとえ加害者が不幸な生い立ちであったとしても、その不幸を被害者や被害者家族が受け入れる必要はないのだよね、
でも、どうやら「法の下の平等」では、それが求められる。
世間の「生け贄」になったのは加害者か、被害者か、被害者家族か。
不思議なのは、遺体となった人間が「強姦」されたとしても、それに異論をはさむ人がいないらしいこと、
「儀式」であれば、遺体はどのように損壊されてもいいかのようだ、それをするのが「子ども」であれば、すべては「許される」、か。
私はその子どもが意識なく行ったことによって命を奪われて、あげくに、自分の体を「オモチャ」扱いされるのは「いや」ですね、
でもそれが「イヤだ」と思うのは「許されない」、優先すべきは「公共の場での公平さ」、いやはや「個人の意思」はどこで尊重されるのだろう?
ひとたび死んだら究極に「文句を言わない完璧な被害者」にされてしまう、そしてその「死」は誰のせいでもない、
単なる不幸な「事故」、不幸な生い立ちの人間が憐れにも引き起こしてしまった「かもしれない」事故、
「事故」でもある程度の「責任」は問われてもいいと思うのだよ、それをしたのが「子ども」であってもね。
たいていの殺人事件は「不幸な生い立ち」の人間が引き起こしたものではないかな、最近、ある意味「人気」の「ヒトラー」だって、非常に不幸な生い立ちの人間だしね。
「不幸な生い立ち」ってそんなにも「免罪符」かな、世間はそんなにも「幸福な生い立ち」の人間が多いのかな?
巧みな言い換え方をすれば、この事件は「不幸な少年が、何故かわからないけれど、とある母子が死んだ場にたまたま居合わせた」になる。
「不幸で未熟な少年がおこしたちょっとした「間違い」」か。いやはや。
しかし、日本は「強姦」事件に甘いなあ。
「あれは「強姦」じゃなかった」に納得している人が多いようだけど、私は何を読んでも「強姦じゃない」とは思わないのだよね、残念ながら。
「法」というのは本当に「男原理」で出来ていると思うわ、女の「イヤだ」には対応していない。
そういえば、大阪で二人の幼児が遺棄されてなくなった事件の初公判がもうすぐ行われるようだ。
この事件の被告もやはり「不幸な生い立ち」で、決して「成熟」した大人とは言えない人間だけれど、
「二十歳」を越えていた時点で、もう「未成熟な子ども」とは見なされないんだろうな。
私には「子どもが二人の子どもを育てていて、子どもの落ち度で子どもたちが死んだ事件」にしか見えなかったけれども。
この事件に関しては目の前で泣き叫ぶ子どもに死ぬまで暴力をふるい続ける「親」と、「死」を見届けることすら出来なかった「親」とでは、どちらが「まし」なのかを考える。
なんにせよ、この事件の判決もまた理不尽になる気はする。事件はどれも哀しい。