「かわいそう」、最強伝説?

ネットではどうも「かわいそう」な人間が何を書いても許される、の不文律があるらしく
たとえ人が子供を得た喜びを書いた日記にくだらないけちをつけても正当化されるようです。
「かわいそうな私(おれ)が傷つけられた!」と一言書けば「最強」です。
「子供が欲しくても得られない私(おれ)に文句を言う奴は鬼畜だ!」と
確かにこの方々は幸福になるための何らかの努力をしている形跡も見られないのできっと不幸なのでしょう。
太宰治風と言うよりは往年の「ハートカクテル」風味のように思われた文章に、
ここまでネガティブな感情が刺激されるとは私には不幸であることを楽しんでいるように思われるのですが、
いかがなものでしょう。
日記を消されたことについてここ(http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20071108094943)には
こんなありがたいお言葉が見られます。
「名文(とは全然思わないけど)が消えたことを嘆くのであれば批判すべきはブログ主の耐性のなさ。
どんなものにでも批判は付き物。それを理解できないことを想像力が無いという。」
不幸な人を刺激することを「想像」した、心優しい人が日記を書かれるがままに消されたのを
「耐性のなさ」などと、たいそうお優しい尺度で測られるとは、これを書かれた方は子供のいないことを私に「揶揄された!」と
「知らなかった」、と書いても「そんなはずはない」と言い張る方なので
子供がいないというのはここまで人を不幸にさせるのか、と「かわいそう」と一瞬思いましたが、
こんな貧しい心しか持てない人間が人の父親ではないことの幸福を子供を持つ身としてはしみじみと感じさるを得ないのだな、
しかしながら子供がいたところでこのゆがんだ感覚の持ち主が矯正されるとも思えず
いったん子供を持てば「かわいそうな自分がやっと得た特別な子供!」と我が子のためなら
平気で他人の子供を突き飛ばす父親に容易に変身するだろうから「公共の福祉」のためにも
この方にはやはり永遠に小梨でいらっしゃられた方がよろしいかとふと思ったりするのでした。
もちろん、「どんなものにでも批判はつきもの」なので、これもまた「意見」であるのです。
結論から言えば、子供を得た喜びをつたない言葉でつづられた方は特別傷つけられたこともないでしょう、
子供を得た喜びでここまでの反響を呼ぶとは思われず、また新しくこの世界に現れる子供に
このようなネガティブオーラが寄りつくことがないようにご自分が書かれたものをあっさりとけされたのでしょう。
個人の日記などその程度のものでしかありません。言葉など消せばなくなる重みでしかないのです、
そして書き手の方は幸せな日常へかけらほども傷つけられることなくより幸福になるのです。
何故、幸福になれるのか、それは聡明であるからです。努力をするからです。勇気を持つからです。
幸せになるのには強さが必要です、いつまでも「かわいそうな自分」に甘えていたいような奴には
その意志が理解できないでしょう、他人に依存することしか考えない、他人に幸せにして「もらいたい」
自分が誰かを「幸せにしたい」と考えられない人間は永遠に不幸です。
でも不幸は優しいです、不幸は「かわいそう」の言葉をいっぱいかけてもらえるのである意味「幸福」でもあります。
「かわいそう」の「言葉」だけを必要としている人とは非常に安上がりでもあります。
「子供がいないなんてかわいそう」「結婚できないなんてかわいそう」、
「かわいそう」と言うだけで何もしない人間であるのに「かわいそう」と表明するだけで自分は
「かわいそうと思っているいい人」になれるのですから双方丸く収まりますね、
「かわいそう」と言ってもらいたい人、「かわいそう」という「だけ」の人。
私はけちくさい人間ですので「かわいそう」と言ってもらいたい人に「かわいそう」とは言いません。
「安易に人をかわいそうがるのは低俗だ」、の自分の「感覚」の方が「大切」ですので。
幸せの尺度は人によっては違うでしょう、でもたとえば「専業主婦」が何故「幸福な弱者」と呼ばれるかと言うと、
結局「他人から必要とされる存在」であるからです、介護が必要な年寄りに、いつまでも金も手もかかる子供に
「必要」とされるのです、これほど大きな「幸福」はありませんので
安い給料のパートであってもあるだけマシ、と子供の塾代のために「クビ」にならないように一生懸命働きます。
安い労働力を必要とするのは世帯年収で税が課せられているわけではないという
「公共という名の暴力」装置のせいかもしれませんが、そんなことは気にもとめません、することが山ほどあるので。
「かわいそう」の言葉だけで幸せになれる人にはこの幸福はわからないでしょう、
「誰か」から「抱きしめられる」よりも「誰か」を「抱きしめる」、そしてその誰かが多ければ多いほど大変であっても幸せなのです。
たとえ、自分の体力に限界が来てもがんばるのです、「幸せ」、ですから。
でもこの個人の「幸せ」感に社会はあまりにも寄りかかりすぎているという気はしますねえ、、、
さて「かわいそう」な人に話を戻しましょう。かわいそうな人は心の傷が何よりも大切なので、これをいつまでも癒えないように
ずっと引き裂き続ける必要があるようです。幸福を表明した人につばを吐きかけ、もっと私(おれ)を不幸と認めてくれ、
子供がいないんだ、私(おれ)は不幸なんだ、だから何を書いても許される!と、
なるほど、まあネットでは何を書いてもたいていのことは許されます。
他人が幸福を書いたから私(おれ)は不幸になった!そうですか、お気の毒です。
赤裸々に性虐待の経験を晒すことで、それを目にしたようやくその記憶から勇気を振り絞って逃れた、
そして今は幸せな子持ちが子供が産めないまでではなくとも、似たような経験を
フラッシュバックのように思い出したとしてもいつまでも「不幸」なままで「幸福」な人に罪はないでしょう。
申し訳ないと思いますがあなた方の不幸という幸福は、私の幸福、不幸の尺度とも違っているようです。
私は実は幼児ポルノなど見たくもない、吐き気がする、と思う人間ですが幼児ポルノの表現の規制には反対しています。
これが私の幸福の尺度であり、幸福になるための努力、強さ、だと思っています。理解は無理でしょうが。
「不幸」な「幸福」を知っている自分を特別な存在であると信じているが故に他の誰でもが脳天気に幸せであると考えられる
「かわいそう」な人達に書くべきことはこのくらいです。
どうぞ、いついつまでも「かわいそう」と人に言われる存在でありますように、ヴィーヴァ、「かわいそう」。
どんと来い、ネガブクマ。
追記、元の日記の書き手の方はかなり迷われながらやはり日記を復元されたようで
   私は良かった、と思う。
   「親になる覚悟」、「強さ」をお持ちのようだ。
   アルファになりたくてなれない人がいやみを書いているようだけど、
   不屈の何かをもたれているのだから、がんばれ。 
追記2;はしごたんなんだかフナムシなんだかよく知らんけど、
    必要と思えばなんでも言えるし、全然気持ち悪くないし。
    あんた、そんなまんまでいいんか?自分でもわかってるくせに。
    余計なお世話だ、ってわたしもわかってるけど。