雑記。

昨日は「妹」にも「増田」を丁寧に教えていただきまして、どうもありがとうございました。
教えられると「あ、そーか」なんで、こんなこと思いつけなかったのは私だけか、とひんやり。
とほほ、肝心な(?)ところでさっぱり頭が動かんよ、日常生活でもこういうことあるのよねえ、、
黒川紀章さんが亡くなった、晩年の迷走ばかりが目立っていたんで、建築家としてはどうよ?
と思ってたけど、私が今まで行った空港でもっとも良くできてる、と感じた
クアラルンプールの空港の設計に携わってたと知って、急に見直す。
なんだ、ちゃんと仕事の出来る人だったんじゃないか、だいぶん前に黒川紀章設計の温泉宿に泊まって
うーん、気のふれた内装、なんて思っちゃったが、考えたら機能的には良くできてたのかも。
無理するから、、まだ73才だったんだなあ、もっと上に見えた、ものを作るって消耗するのかな。
ゴア氏がノーベル賞のニュースは私的にはどうでも良くて、京都の女子中学生が二人も自転車で登校中に
車にはねられて亡くなったことに衝撃を受けている。
親としたらたまらん、朝、「いってきまーす」と出て行ってすぐこんなことになろうとは。
狭い国道で、とばす車のすぐそばをよちよち歩いていく小中学生は多いからなあ、
うちの子だってものすごく危ない道を一カ所通る。そういうところに限って車がつっこんでくる、
コンクリの壁に阻まれて逃げようがないんで、もし何かあったらと、ものすごく怖い。
日本って「産め、産め」というわりに生まれてきた子供に対しては冷たい、とつくづく。
まあ、どこの国でもそうなんでしょうが。
「愛ある体罰」を愛する人に「愛ある体罰」でその「体罰」をやめるようにすることは出来るのか?
なんて、ふとお気に入りの方のところを読んで考えた。出来ないよねー、絶対、、
「しつけのよい子」は幻想じゃないか、
単に異様に人の顔を見るのに長けてしまった子供でいるだけなんじゃないか。
もちろん、元々おとなしい子供っている、でもお友達と遊ぶのが苦手だったりして、親の気苦労は絶えない。
「見られる」ことを早くから意識する子供がいいのか悪いのか、、
「こんなことしてたら誰かにしかられる」わかってしまったとき、子供の中で何かが終わっていく、
そう思ったりする。
いいこと、悪いこと、を「心」でわかって欲しい、「頭」ではなく、と難しいよね、うちの子達はわかってるのかな?
「心」でわからせるのに「体罰」では出来ない、「愛」なんてないよ、子供を叩くとき、あるのは「ヒステリー」だけ。
少なくとも私はそうだった。子供を叩いたこと、ありますよ、ものすごくつらかった、
今でもしなければ良かった、と思う。
逃げ道のない私しかいない家の中で、もし、ちょっと目を離したすきに、お風呂に落ち込んだら、、と思って
お風呂場でお水遊びを1人でこっそりしようとした上の子を容赦なくびしびし叩いたことがある。
彼女はしばらく、お風呂にはいることすらいやがって泣いた。
幼児が起こしがちなありとあらゆる事故におびえていた私がしたいくつかの「体罰」、
それは必要じゃなかった、と今は思える。それから1人で育児するのは限界がある、とも。
その「体罰」に愛があったか?と聞かれたら、
いや、それ以前に子供に何かあったとき、責められる自分が思い浮かんだ、と告白しておこう。
世間は過失で子供を失った親に対して「親がちゃんとしていたら、、」と容赦がない。
悲しませてくれない、子供を失ってつらくない親なんて滅多にいないのに。
「愛ある体罰」とか、「集団自決」も「強制ではなかった」とか、「11万人じゃなくたった4万人だった」とか、
言葉で適当にごまかして、何かできたつもりでいるらしい人たちを
やはり「愛ある体罰」で矯正できるかどうか試してみたかったりする私、、危ない、危ない。