ネット雑録。

大野先生の日記(というのは失礼か?)がネットで「書く」と言うことをかなりつっこんで書かれている。
公開されている「場」で書く、と言うことと「自意識」は全く無関係とは言えないだろう。
とはいうものの、私は自分の日記を他人が読むとはほとんど意識しなかった。
元々日記は長々続けていて、パソコンを買ってもらったときにパソコンでつづるようになって
それをどうにかして読みたい、でもプライベートエリアに踏み込むのをためらう配偶者向けに
私は「さるさる」で書き始めた。
私の配偶者は長くネットをしている人なんで
(そういや、このあいだ17年、で驚いている人がいたがうちのダーリンはそれ以上なんで長老、といえるのかも)
話題になってる「ブログ」というものが面白そうだ、私の日記をそこに放り込んだらどうなるだろう、と
前の機種で対応できるのが「はてな」しかなかった、と最近になって言い訳していたが
「これからここで書いて」と言われるがまま、「はてな」が「ムラ」社会であることも知らないまま始めた。
それでも来てからもう2年以上たって、ここ1年以内に「はてな」が「ムラ」だと気がつくレベルなんだから
「ネット」にいる人間の意識レベルとしてはかなり低いんじゃなかろうか、
まあ、確かに「ムラ」という言い方はぴったり合ってるような、それでいいのか、と言いたいような、
でも、始めちゃったんだから仕方がない、それでも好きなことを書こう、と言う気持ちで続けているし、
現実生活の物理的な支障がない限り多分これからも書く。
公開していることである程度の「枷」をかけて書くという行為は頭を使うので、面白いところもある。
「自我」を認めてもらいたい「叫び」とは言えるようで言えないような、
もう少し大野先生の書いている意味がよくわかったらいいんだけど、どうも私には不完全にしかわからない。
はて、大野先生は「ネット」で「書く」ことの「自意識」を引き裂いていらっしゃるのか、それとも擁護されているのか。
「認められる」ことに意味って何かあるんですかね。
それは自分が「何者か」であることを他人に理解されたい、ってことなんですかね。
それから「未熟者」の意味も価値観としては一方的じゃないか、と思ったりしたなあ。
でも、ここで「未熟」をエントリにあげられた人の意味がわかった。
うーん、「書く」ってここまで突き詰めなくちゃいけないものか、ここまで断罪されなきゃいけないものか、
長々コメント欄に書いている人を読んでも、元々この人が誰なのかさっぱりわからんので
「増田」もわからんような「未熟者」の私に「初心者マーク」をつけてくれ、
いや年齢的に言うと「濡れ落ち葉マーク」か。(違う、なんだっけ、あの高齢者向けマーク)
「未熟」ってのはどのような「成熟」が求められてるのかわたしにはわからなかったな、
ネットとは永遠の「厨房」が(これもかなりたってから中学生、の意味と知った)存在するところだと
私はどうも自分を「成熟者」だとを匂わせる人に感じるところがあるが、
とにかく、現実生活に支障がない程度になら何を書いてもいいんじゃないか、嫌なら書き返せばいいんだし、
なんて、私は未熟者以前に野蛮人なんだろうかね。
嫌なヤツのリンクから人が来ているのを見るとむちゃ腹立って、がぁがぁ書くし、
それでちょっと気がおさまるし、(よそさんには、見苦しいのも承知の上よ)
好きに読め、好きに書く、で、それ以上の「規範」が求められたらまともに書けるような人は書かなくなる気がするなあ。
切り裂いた後に残ったものってなんなんだろう、自意識を見つめる自意識を断罪した果てに何が現れるんだろう。
大野先生は確かに非常に面白い、それだけかな、わかったのは。
(あ、ないと思うけどつっこまれてもわかんないから。わかんないことをわかんない、と書いてるだけなんで
そこんとこ、よろしく)
追記;ほんで、大野先生は気持ち悪い、っていうひとの気持ちもちょっとわかったりする私。(でも好きです、はーと)