雑記。

以前から、特に「ネット」で感じている「子どもを守れ!」への腹立たしさがだんだんわかってきた。
「子ども」がわかっていない人が、「ファッション」でやっている、「正義の味方」になりたくて。
その場合の「子ども」には、「個性」がない、ただの「弱者」、「守ってやる!」の示威行動の「添え物」でしかない、
まさに「女」、「子ども」の「記号」、その無意識の「蔑視」に私は怒りを覚える。
これをする人には「子ども」がいないことを願っている、一個の「命」とまともに向かい合っている人間の発想とは思えない。
人一人を「守る」ことの大変さがわかっていない人間が、安易に「守る」などと書き連ねる気がする。
育児に関しても、それをしたことのない人間ほど、「子育ては愛さえあればいーんだよ」などと、「簡単」に言ってくれるが、
その「愛」を伝えることが、どれほど大変なことか。「愛」ってそんなに簡単なものだっただろうか。
「愛」すらも、この手の人にかかると酷く「軽い」。
「愛」を伝えるためになんの努力も重ねてきていない人に「愛は簡単」と語られても私にはピンと来ないし、
「子ども」の存在を「簡単」に考えている人に「子育てなんて簡単、愛だろう」なんて言われても、腹が立つだけだ。
子どもを育ててもいないくせに、「子育ては愛だ」と漠然としたことを言って悦に入っている人に問いただしたいのは、
その「愛」はどのような種類で、どのように伝えるのかわかっているのか、
あなたが漠然と唱える「親の愛」なるものが、やったこともない子育てを簡単に考えるような根拠のない自信に満ちあふれたあなた自身を育て、
それがあなたにとって「正解」であっても、私や私の子どもにも「正解」であるという「確証」はあるのか、
「同じやり方」が全ての「子ども」たちのためになるのかどうか、
それが見えていない人間に「子育てなんて愛さえあれば出来る」みたいな、こちらに自分の子どもへの「愛」がないかのような書かれ方をすると、
正直、絞め殺してやりたいくらいほどの憎しみを覚える。
日々、どれほどの努力を重ねて、子どもを育てていることか。
至らない自分のことは十分によくわかっている、自分が持っていないものまで、時に「育児」には必要とされる、
それをなんとか手に入れるために、付け焼き刃でも奔走する、「完全」ではない「親」の心をわかっているか、
「子育てなんて簡単」などと、ある種の育児に関わろうとしない人間が言いたがり、また「簡単」なのだと当事者たちも思いこまされる。
一見「簡単」に見えることが、やってみたらどれほど「難しい」か。バカは人間としての「経験」がないが故に、わかっていない。
私には「子供を産むのがこわい」「こんな状態で子供なんて産めない」とおびえる人たちのことが痛いほどわかる。
「簡単」なんだから「完璧」にやれ、の「圧力」が「完全」ではない自分を知っている人に重くのしかかる、
「簡単」なことに「失敗」は「許されない」と、「子育て」で一個の人間が「断罪」される、
そしてそれはたいていが「母親」に向けられる、この「理不尽」さに、多くの母親がおびえている、そして母親予備軍も。
時間がないし、腹も立っているので、まとまらないままに終わるが、
育児していないものが、育児に口出すんじゃない!と、
そして、育児したことのある人間だったら、自分が「鈍感」であるが故に感じなかった「圧力」を他人にかけるな、と
出来が悪いんで、四苦八苦して育児に立ち向かっている私が書いておく。
「愛」は簡単なものではないし、子育てだって簡単ではない。だからこそ、素晴らしくて、やりがいのあることだ。
ちなみに「カネがあればいいんだろ」も「愛があればいいんだよ」と同じくらい腹が立つ。これももっとよく考えて「答え」が見えてきたら書く。