退院報告。

「介護」と言えば15年以上前、結婚をはさんで育ててくれたばあちゃんの介護を2年ほどした。
当時はまだ介護保険もないし老健設備もそれほど一般化していない、ただ病院がまだ半身不随の人を
入院させてくれてたんで、近所のなじみ(?)の病院にお世話になった。
私も母ももちろん父もフルタイムで仕事をしていて、もし病院が面倒を見てくれていなかったら
どうなったんだろう、そして今、介護保険が導入されてどう変わったんだろう。
地方では4世代同居なんて家は珍しくないんで、私世代が「孫」に当たる人の介護を
私たちの「親」世代がメインになって担ってたりする。そして私世代はその介助、と
預けられる老健で「パート」をしてたり。
都会じゃどうかは知らないが、田舎では老健で働く人のほとんどが私と同世代の「専業主婦」だ。
もちろん、数年前に資格が必要になったとき講習のなんのを受けに行く人がたくさんいた。
それにかかる費用もパート先が出してくれるところもあれば知らんぷりで自費のところもあり、
で、知り合いの中には雇い先と交渉してなんとか費用を出させたと、
でもああいう資格を取るのは申請したら国の補助か何かが出るんじゃなかったのかな、
人の話を斜め聞きしてるんで、はっきりしたことは知らない。
「将来のために」と老健で働く人は多いんだよね、「事情を色々知っておきたいし」
で、機会があるとき話を聞いて、私もその「経験」のおこぼれをいただいている。
はぁー、とにかく大変そうだ、デイケアサービスとかも。
決してお給料のいい仕事ではないので若い人は割と早くやめてしまうそうだが、
専業主婦の場合、どんなに低賃金でも生活がかかってるんで、やめることはほとんどない。
子持ちはがんばるんだよな。若い人には耐えられないことでも子供がいるからがんばる。
ま、その手の話はおいといて、よく人から聞くのが自分の「両親」がぼけたときのこちらの「精神的ショック」、
自分の親のそういう姿を認められない、認めたくない、の戦いがまずあるそうで、
私も確かに親代わりとなってくれたばあちゃんが倒れて1年ぐらいで
毎日見てる私の顔を全く忘れてしまったのはショックだった。
少しずつ、わからなくなっていって、波があって、わかるときもあったけど、最後は多分わかってなかった。
悲しかったのは、ばあちゃんの「愛した記憶」がすっぽりと抜け落ちてしまったようなところ、
あれだけ大事な一人息子である私の父親も、育てた孫達も、思い出さない、
でも子供時代、母親の庇護の元、一人娘として「愛された記憶」はずっと持っていた。
息子の嫁としてしょっちゅう当たり散らしていた私の母親を自分の母親だと信じていた。
私が行っても駄目だった、私の母親が来てくれないと嫌だ、ともつれた舌で言っていた。
そこに勤務する看護婦さんと親しくなってふと
「苦労の多い人だったんだねえ、子供時代が一番幸せだったんやろう」と言われて何ともやりきれなくなった。
私たち孫3人と、ある意味私たちにとっては「愉快」に暮らした日々は、
ばあちゃんにとってはひどい苦労だったのかもしれない、と感じた。
私たちはぐれるわけでもなく、割と近所では別格の出来のいい兄弟として有名だったが
そうするのに、かなりの苦労をさせたんだ、と、私たち3人は
「ぐれたりしたら、仲間のところにあのばあちゃん、つっこんでくるに違いないから、絶対無理だよな」なんて
よくひそかに笑ったもんだが、そんな覚悟を見せることで私たちがばあちゃんから失わせたものは
多かったのかもしれない。それでも心の底から、「育ててくれてありがとう」と思っている。
ばあちゃんの偉大な犠牲の下に私たち3人はそれぞれ社会で何とかやっていけるようになった。
要領がいい(?)せいで世間体もみんな非常にいい、今、両親はうらやましがられているくらいだ。
私たちは「理想的」に育ったわけでは決してないのだけれど。
なんにしても、ばあちゃんと両親はまた違っているので、「介護」の苦労も違うんだろうな、などと
なんとか二人とも病院から帰ってきましたが、母はまだ精神的にやや不安定、父もそれに準ず、
ってかんじで前途多難、かな?
別にぼけてるわけでもないのに今からそんな心配をする親孝行(??)な私、、
私は「愛した記憶」をとどめておけるのかな?そういうことをちらっと考えたり。
でもまあ、のんびりやっていくか。「親」をしながら「子供」をするのは大変だ。