「らしさ」に、ついて。

「らしさ」という言葉はいつもうさんくさい。
「専業主婦らしさ」「エリートサラリーマンらしさ」「優等生らしさ」
「母親らしさ」「子供らしさ」「自分らしさ」、、、
「らしさ」っていったい何だろう?私はいつも不思議でならない。
たとえば「男らしさ」を拒否して、それを「先進」的なことのように考えている「男」なのに
何故か「女」には強烈に古めかしい「女らしさ」を求めてくる。(「母親らしさ」や「専業主婦らしさ」のように。)
ジェンダーフリーを推奨するのは単に女性を攻撃する根拠だけのためじゃないか、と思わせる男にありがちなことだ。
「母親らしくしないと子供らしく育たない」、これは一面の真実ではあるのだが
そもそも「母親らしさ」とは「外側」に向かってわかりやすく常にアピールしなければいけないものだろうか?
そんなに見せびらかさなければいけない「らしさ」で本当に子供はまともに育つんだろうか?
「子供らしく」振る舞うことだけを覚えるんじゃないだろうか?
「母親らしさ」を常に意識しなければ生きていけない母親に圧迫されて。
「らしさ」の圧力は至る所にあるように思う。「結婚した女は必ず子供を産まなければいけない」
「女はみんな子供好きでなければいけない」「母親ならば子供のために仕事を犠牲にしなければいけない」
「専業主婦は馬鹿なんだから文句を言ってはいけない」その他諸々、、
「らしさ」の圧力に「子供なんて嫌いだ!」と叫ぶ人はえらい。
「子供がいなくてかわいそう」なんて言う人は実は周りの圧力に負けて欲しくもないのに子供を作って
嫌々子育てしているのを「母親らしく」振る舞うことでごまかして
堂々と子供を持たずにいる人がうらやましくてならないから嫌みを言うんじゃないか、と思う。
私は好きで子供を産んでいるが、子供が嫌い、と言う人の気持ちもわかる。
子供は一般に「子供らしい」と考えられる「以上」の存在だ。「らしさ」を超越している。
大人の目から見て「えげつない」のが子供の特徴でもある。これに恐怖を覚えるのは理解できる。
今は「自分らしさ」という言葉はそれほど用いられなくなったが、この言葉もうさんくさかった。
「らしい」自分、とはなんなのか、私は未だにわからん。
「らしくないことをする」とは、では「らしい」私、とはなんなんだ?少なくともそれは「私」ではない!と思う。
私は「らしさ」とは「パフォーマンス」なんだと考える。「コスプレ」と言ってもいい。
たとえば、私は頭も察しも悪いしつこいセールスマンには
「ゴメンナサイね、主人に聞いてみないとわかりませんの」
「主人がいけないと申しましたので」、なーんちゃって、「奥様」ぶりを「らしく」ひけらかして、
振り切ることにしている。
「頭の悪い専業主婦らしさ」を発揮して、「主人に聞かないとなーーーんにも決められませぇーん」と
これでたいていのセールスマンは撃退できるので、大変便利である。
それでも食い下がるヤツには「主人がいるときにまた来ていただけますか?」と言えば、絶対にもう来なくなる。
これでアホなセールスマンの売りつけるもののレベルがわかるというものよ、
くだらない学校教材や浄水器や、様々な「らしい」もののうさんくささよ!(最近はもう来ないけれど)
たとえばネット右翼ご愛読の「朝日新聞」の読者は全員記事に洗脳されて「左翼」でなければいけないらしいし、
紙メディアを読む人間はそれほど情報に敏感でない、の意見もこのあいだ読んだが
この朝日新聞読者「らしさ」の馬鹿馬鹿しい押しつけ、「らしさ」って結局「思いこみ」じゃないのかな。
実態をほとんど知らない人間達の哀れな幻想。
「らしさ」よりももっと本質的なものを、と心から思う。「らしさ」を見せびらかす人間にはろくな人間がいない。
それでも人は「らしさ」を求める、何故なんだろう、「便利」であるからか?
私がそれ「らしく」振る舞うときは、自分よりも相手の意向を優先させる場合が多い。
そういう自分を「ずるい」と感じることもある。「らしさ」とは、「ずるさ」、かな。
二日ほど休みます。