長い話。

育児の最終目標とは1人の人間を「生き延びさせること」だと私はとらえている。
一個の人間がこの社会の片隅でも、なんとか自立して、幸せになれる道を
「自分で」探すことが出来るように支えてやることだと思っている。
究極に言えば生きていればそれでいい、どのような人生を歩もうと自分で満足して、
その生涯を終えることが出来れば「親」である側は何も言うことはない。
つまずきのない人生なんてない、
時にいじめの被害に遭い、心傷つき、人に恐怖を覚えることもあるかもしれない。
それでも死ぬことさえなければ人間はいくらでも立ち直れる。
生きていくことこそ正しい道だ。
様々な親がいるように様々な子供がいて、様々な家庭環境があるのだから、
私から見ておかしな親でも相手から見れば私もおかしく見えることだろう、
だからといって、その育児が完全な間違いであるかというとそうではない。
おかしな親からでもまともな子供は育つ、この人間の可能性、
子供の持つ「生きる力」に時折心の底から驚嘆することがある。
同じものを見ても子供は同じ答えは出さない、
子供の感覚はまるで奇跡のように新しい。
私は人を育てるとは自分もともに育つことだと最近しみじみと思う。
私は神は全く信じないが天意のようなものが存在して
ともに人生を豊かなものに出来るよう子供を預けられた気がすることもある。
「育てる」とはむしろ傲岸な言葉のようで「育てさせてもらっている」の方がふさわしいかもしれない。
それほど生まれてきたすべての存在はすばらしい。
これは自分の子供だけではなく、その友達、周辺を見ていても感じる。
たとえ私自身に、ある親が何らかの反感を抱いていても子供はそれに影響されないことがある。
むしろ、親とは違う存在を見出してそっと手を伸ばしてくる時もある。
そのときの親の反応が非常に興味深い。何が何でも私から子供を引きはがそうとする人もいれば
子供が興味を示したことで、私に対して「見る目」を変える人もいる。
態度を変える人は子供の感覚をきちんと尊重しているのだと私自身もその人への認識を新たにする。
考え方は違っても子供を通して理解が出来た人間関係も私には存在する。
子供という「存在」はかけがえのないものだ。
ただ、この社会は何故か当たり前のことをしている人間たちに、
いつもどこかつっこんでやる隙はないか、と虎視眈々とねらっている人たちがいる。
何かあればすぐにしたり顔で「こうなると思っていた」「まえまえからそんなところがあった」と、
些細なところをつつきだしては晒し上げ、人を集めて凱歌をあげる、
そしてまた別の攻撃対象がないか同じように「見える」人間達をあさり始める。
私は成績のいい上の子に関して「かわいそうに、勉強ばっかりさせてるんでしょう」とか
「お父さんに期待されるのは大変ね」とか、よく知らない人から言われることがある。
こちらを典型的な「教育ママ」であるかのように扱う侮りを含んだ物言いに
「ふつうにやっててうちの子はふつうに出来がいいんです、出来の悪いあなたと違って」
なんて言えたらどんなにいいだろう、と思う。
実際は、勉強は毎日1時間食卓の上でやるだけだし、夜は10時半に寝てる、
下の妹も同じようにさせているけど、成績はさほどかんばしくない。
優等生とは生まれながらに優等生なんじゃないか、と時々上の子を見て思う。
下の子は上の子のように何も言われずに勉強する、なんてことはなく、
何か「えさ」でも与えないと漢字ドリルを目の前にしていかにこの漢字ドリルをやらずにすませるか
「いいわけ」を考え出すのに大半の時間を費やしている。
ただ、この妹は小学1年生からルービックキューブが異様にうまい。
お姉ちゃんはかろうじて1面クリアだけど2年生くらいから3面は軽くできるし一度6面全部出来たこともある。
(ほんの偶然、と本人談。確かにそれ以降できてない。)
未だ遅くなるまで鉄棒にぶら下がり(現在6年生)、学年の違うお友達から「よっちゃんいか」を分けてもらって
しゃぶりながら帰ってきたりする。
同じ親から生まれて同じ育て方をしても「個性」とはこれほど違う色を見せる。
私にはどの色も鮮やかで美しく見える。
それでも親がそう思っていることを全く認められない人間が「お姉ちゃんはよくできるのに」などと
とんでもないお節介を焼いてくる。その話を聞いたとき、私は激怒しそうになったが
「ウン、お姉ちゃんは良くできるの、って言ったよ」と下の子はくったくなく笑った。
下の子は比べられることなどまったく気にもとめない。子供は、本当にすごい。
健やかに育ちゆくものへのいびつな視線を私はネット上でも見て取る。
拾った拳銃で遊んだ高校生が殴られて当然だ、としたり顔で語る人たち、
まるで自分は子供時代、恐ろしく品行方正であったかのように。
また、「子供がかわいそう」などと書きながら子供になんの理解も示さない、
子供を「かわいそうがっている自分」だけが大切な人間もいる。
「夕方アニメを見る時間もないかわいそうな子供」などいない、
いつまでもいい年の人間がしがみついているものへの子供の静かな批判の視線が感じられない
「かわいそうな大人」が存在するだけだ。
漫画やアニメから子供が離れがちなのは自分たち「だけ」の世界を模索しているからだ。
大人の手垢がついたものを無意識に拒否している、「大きなお友達」のいない世界を「小さな仲間」は探す。
それが自然の流れだと私は感じている。そこから何かが生まれていくのだと私は期待する。
子供は「子供らしさ」を押しつけられる存在ではなく、
大人が「庇護者」ぶりたいためだけに存在するものではない。
「育てる」のではなく「育つ」手助けをする、弱々しくも生きていこうとする1人の「人間」のじゃまをしない。
子供達をはぐくむものは一見正しく思われる「かわいそう」なんて「言葉」じゃない、
暖かくさしのべられる手と、うまれてきた仲間を受け入れるやさしいまなざし、
育児する親達にとっても。
「子供を守る」だの「子供がかわいそう」なんて言葉は、もういらない。
すきあれば、母親を責め立てるありとあらゆる非難の嵐も。
子供の出来が良くても悪くても、投げかけられるこの悪意は一体どこから来るものか。
私を不快にさせるものはなんなのか、突き詰めてもっと考えようと思う。