「諸事情」、雑記。

ネットで「ちゃづけ」の名前が私の知らないうちに使われていて、
どうやら私は「とんでも親」として子育てに失敗するのを心待ちにされているようだ。
非常に残念な事実をお伝えすれば、私の子供は私が育てたにもかかわらず
文科省ご推薦のお子様に育ちつつある。
昨日諸事情がなくなった、と書いたのは、子供の受験にそれほど神経質になる必要がない、と
最近通わせ始めた塾の先生からお墨付きをいただいたので、
ではだらだら、塾事情や受験について書き残すのも悪くないかな、と思っている。
夏休みの終わり頃、子供が入塾テストを受けた後に先生に言われたことは
「大学はどこに行かれますか?今なら東大でも京大でも目指せばどこにでも行けますよ」とのことで、
高校に入るのはどこであれ、なんの心配もない、むしろ早くどこの大学を目指すかをはっきりさせた方がいい、と
親子共々想定していないことを言われてしまったので、未だ親子で悩んでいる。
私が自分の育児でこれは正しいことだったのかどうか心苦しいのは上の子供を中高一貫の学校に
行かせなかったことで、数年前、中学受験を私はよしと思わなかった。
悪いとも思わなかったが、本人にその気がないのにさせるのはあまりに親の独断のような気がして、
身内の人間から勧められたにもかかわらず、熱心に子供をそちら側に導かなかった。
これを「親の怠慢」と責められても仕方がない、とは思っている。
能力のある子の足を親が引っ張った、の見方も可能だ。
私は、おそらくその能力のある子供に父親と同じ大学に行け、と言えないでいる。
子供がいつか言われるかもしれないと感じているのを知りながら、言わない。
たとえどんな道に進むのであれ、それを受け入れよう、
子供には子供の人生があり、それに協力するのが親の役割で、親がそうしたから、と言って
同じ学歴、同じ職業、などを押しつけない、が私たち夫婦の価値観で、
この「価値観」をある意味、子供は押しつけられているのかもしれない、と最近考えてもいる。
言われないことが子供にはプレッシャーでいっそ言われたらはっきり拒否して
それでおしまいになるのかもしれないがその先にあるものはなんなのか、
子供の可能性や能力とは一体何か、私にはまだとらえきれていない。
子供の父親は格別自分の歩いてきた道を否定するつもりもない。
親が何も言わないことで子供はどんな答えを出すのか、私たちは待っていようと思っている。
ネット上の見知らぬ人間が「かわいそうな子供」だとか、
私の書く断片から考えて悦に入って決めつけるのはさぞ楽しかろうし、
もめ事タグをはりつけるのも鬱憤晴らしになるのだろう。
ただ、私の子供に一般的に社会不適格者と見なされる不登校だとか引きこもりだとかを
待ち望んでいるのならそれはないと書いておく。
まず私自身は、不登校や引きこもりを育児の「失敗」と見なさない。
そうしたわかりやすい鬱屈の向かう先は大体理解できるので、その対処法はいくらでもある。
それよりももっと、ごくふつうに育った子供の将来の見極め方が難しいのだ、
能力のある子供の導き方、なんてマニュアルはない。
「成績のいい子の危険性」と、否定的にとらえる本はいくらでもあるのに。
しかしそもそも「育児」に「失敗」ってあるんだろうか?不登校や引きこもりも、子供はまだ生きている、
これからまだまだ人生は長く続く、不登校も引きこもりも一時的なものだ。
生きている限り乗り越えられないものはない。
私は「ネット上の私」を気に入らない人が、私の「育児」に対して何を期待するのか、不思議でならない。
申し訳ないが、あなた方がしそうな「失敗」は私はおそらくしない。
ネット上に狂気を晒したところで現実世界ではきわめて正気である私にその手の期待は無意味だ。
書けば自慢になるだろうが私にはむしろ子供の出来の良さが悩みの種だ。
私を批判する人間にその理解は望めないだろう。
私たち夫婦にとっては当たり前のことをして当たり前のように子供が育つ、
まだ子供は途上であるのに、いい育て方をした、的にとらえられるのも苦痛に思う。
私が育児に対して抱く不安とおそれはもっと人間のあり方の根本的なもののように思う。。
日々精神的にも成長めざましい子供の問いかけにいつまで答えられ続けるか、
そうした親への道しるべはネット上でもほとんど見かけない。
何でもあるようで、ネット上にはなんにもない。だから書くのも難しい。
くだらない発見をしつつ、見えてきたものもある気はする。