雑記。

からしばらく休む、と以前書いたんだけど「諸事情」がなくなったんでまあだらだら書こうかな、と。
ドロシーなんとかの皇太子様がお好きだとかの詩について、「嫌いだー!」と叫んだ方について。
「そういうあなたが好きだー!」と僻地から。
まあ、正直に言えば、あの「詩」を好きだ、とか言いたがる連中を私は嫌いなわけで。
ほんでまあ、身も蓋もなく言っちゃえば、あの「詩」がすき、なんて言ってるような連中の子供ってのは
どう考えてもろくでもない奴に育ってるってワケで、確かに環境って大事かも、と思うんだなあ。
「ほめて育てるメソッド」ってヤツが私の上の子が生まれたときは主流で、全然子供をしかれない親が
かなり多かった。これはいくら何でもしからんといかんでしょう、ってばあいでも
「しかったらトラウマになる」みたいないいわけを私はたくさん聞かされて、
もうどうしようもなくうんざりした。
一回や二回、親がしかったくらいでトラウマになってしまう親子関係ってどうよ、と何故か考えつかない、
しかるのが怖いのね、自分の子供をしかるなんて出来ないのよね、だって自分の延長線上にいる子供だもん、
自分をしかってる気分になる。そこが実は間違ってるんだけど。
子供は生まれたときから、いや、おなかに宿ったときから親とは別人格、親の子であって親の子ではない。
この明確な説明が私にはまだ出来ないので、以前書きかけた「親の資格」について、
きちんと書けてないんだけど、親であること、大人であること、育てること、保護すること、の違いを
考えながら自分とは別な人間である子供に接していけば、妙にわかりやすい「子育てマニュアル」を
誤解せずにすむように思う。
自分の子供をしかることが出来ない人は自分が育てたやり方を自分で否定することを怖がってるような気もする。
やり方は間違ってるときがついたときに替えたらいい、
それが子供のためならば、自分がしてきたことを否定したってかまわない、と考えつかないのが悲劇を生む。(たぶん)
しかられずに育った子供はしかられることを受け入れることが出来ない、
私はそんな気がして子供の周辺の子供達を見ることがある。
親が怖がることを何故か子供も怖がる、これは「子供がかわいそう」なんて言いたがる人間の心理の呪縛だ。
子供をその親の延長線上にしかとらえられないので、自分の子供も自分の一部としか思えない。
他人の子供をその他人の延長線上にしか見られないので気に入らない相手の子供を平気で
「子供がかわいそう」なんて言葉で非難する。親の一部、と無意識に見ているから。
私の子供を私の一部と見るのは間違いだ。私の子供は私の子供であっても「私」ではない。
私が育てていても「私自身」になることはない、なぜなら「私」ではないから。
自分の子供をしかることで自分の人格を否定されている気持ちになる人は自己批判が出来ない人だと私は見なす。
常に自己批判が求められるのが育児というものだ。
それがわかってる人が、この手の一見楽天的な「詩」に矛盾を感じてその矛盾を感じる自分の心にも苦しむ。
本当に、肯定ばかりされて子供は育つのか?
時に親に否定もされてその否定を自分の中で幼いながらも消化して子供は健やかに育つ。
「否定」の消化を助けるのは、「愛情」だ、親が本当に自分を自分として受け入れてくれる「愛情」だが、
その愛情が「自己愛」に過ぎない人も時にいる。そう言う子供は親から何故か離れることが出来ない。
それでもいつか、私は子供は離れていくものだと思う。
親が子供にしがみつかない限り、子供はなんとか離れられる。
しがみつく親にだけはならないでおこう、と私はそれだけは自分の心に決めている。
私自身だって、どれくらい「親」でいられているか、やはりわからないのだもの、
「子供がかわいそう」の言葉に苦しめられるのは、自分の延長にあると子供をとらえているんじゃないか、
と私は私に疑いをずっと持っている。育児はいわば自分との「苦闘」でもある。
その苦闘に媚薬のような「育児マニュアル」をちらつかされて正直迷うことは何度もある。
でも、盲目的にそうした言葉を信じて実践する人を見ていると、私は苦闘する育児の方がマシだという気がする。
子供の側から見てあの詩が脅迫的であるように、親にとってもあの言葉は脅迫的だ。
それに気がつく健やかな心がこの世の中に存在することを私は喜ぶ。
自分の子供がこんな風に聡明であったらいいなあ、といつもその人が書くものに感じる。
コメント欄に何故あんな風なことが書かれるのか理解できないものの、
信奉するマニュアルが否定されたことで自分が否定されたようにも思うのだろう、
それは全然違うんだけど。
いろんな育児があって、いろんな子供が育って、いろんな社会が生まれる、
考えはまだまとまらないのだけれど、また整理して書き始めることにしよう。
親であることについて。考えていることはたくさんある、迷いながらも。