子供がいてよかったこと。

定期的に血液検査に通っていて、前回はいつものベテランさんではなく新人さんで、
これは「見えない」と血管を針で探られるかと覚悟したところ、上手に入れてくれて、
緊張した真面目な顔を見るとちょうど社会人一年生の上の娘くらい。
そういえば娘の友達が第1志望が受からなかったらここの検査部に入る、と言ってたな、
幸い第1志望の大学病院に採用されて今は勉強会、研修に終われる日々のよう。
私が子供がいて本当によかった、と思うのは、子供の同級生たちの成長の行方も自分の子供の成長同様、見守れること。
大体、いつごろ、何があって、何をして、どこに行ってどんな勉強して、を知っていて、
「ああ、大きくなった、立派になった」と心から喜べる。その成長と幸せを子供ものと同様願うことが出来る。
「子供がいなくてもそんなことは出来る」と言う人はいるかもしれない、でも、私は子供がいなかったら、出来なかった人間だ。
私は顔のない子供の幸せを願うことは出来ない、漠然とした存在の漠然とした幸せなど「ない」と思っている。
ここ数年、車の中から会釈してくれるきれいなお姉さんは誰だろうと思ったら、中学のとき同じ部活だったあの子か、だとか、
外食の折「どうも、お久しぶりです」と声をかけてきたエグザイルのようなイケ面の兄ちゃんは小学校時代の同級生だとか、
子供は案外親しくしていた子の親の顔を覚えているもので、私が気がつかなくても、声をかけてくれる。
子供のときの面影が、しっかりとした大人の顔の中にあって、心が温かくなる。
これが子育ての付録のような幸せで、私のように子供を二人とも地元以外に出した親にとっては、子供と同世代に声をかけてもらうのがことのほかうれしい。
子供を持ったことで、すれ違う人生の数が格段に増えたと思っている。
同じように「親」をやってきたPTA仲間とも一緒に年をとって子供たちの成長を見ている。まあ、おばはん同士の遠慮なしの感想も交えながらだけど。
確かに、いいことばかりではなく、かなり困った子供の行く末をどうしようもなく見ているだけの場合もある。
それに、思いがけない声がけがうれしいとは「オレオレ詐欺」だとか「売り込み詐欺」だとかに私も引っかかる可能性はきっと「大」だ。
かわいそうな子供の行く末がどうなるか。
生きている限り、それから先も、必ずある。何がどうなるか、なんて本当のところは誰にもわからない。
子育ては、このての明るい人生訓を私に与えてくれたように思う。
子供を育てるって、自分の子供を見ている、だけではなかったんだ、と今になってわかった。子育ては結局、振り返ってみれば「孤独」ではなかった。
子供を育てることで、ほかの子供を見て、人間の成り立ちが時間と成長と言うふくらみを持って見えるようになった気がする。
子育てには思いがけない贈り物がたくさんある。「リスク」や「コスパ」で考える人にそれはまだ見えない。